泉澤寺。吉良右京太夫頼高が開基、準西国稲毛三十三観世音霊場
泉澤寺の概要
浄土宗寺院の泉澤寺は、宝林山運昌院と号します。泉澤寺は、好善和尚が開山、世田谷の領主吉良右京太夫頼高が開基となり、世田谷領烏山(或いは隣村多摩郡廻澤)に延徳3年(1491)創建したといいます。天正18年(1549)焼失し、世田谷領主吉良頼康が当地上小田中へ移転したといいます。徳川家康が入府してよりは、寺領20石を拝領、近隣に多くの末寺を擁した中本寺格の寺院でした。準西国稲毛三十三観世音霊場17番です。
山号 | 宝林山 |
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院号 | 運昌院 |
寺号 | 泉澤寺 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
住所 | 川崎市中原区上小田中7-20-5 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 準西国稲毛三十三観世音霊場17番 |
泉澤寺の縁起
泉澤寺は、好善和尚が開山、世田谷の領主吉良右京太夫頼高が開基となり、世田谷領烏山(或いは隣村多摩郡廻澤)に延徳3年(1491)創建したといいます。天正18年(1549)焼失し、世田谷領主吉良頼康が当地上小田中へ移転したといいます。徳川家康が入府してよりは、寺領20石を拝領、近隣に多くの末寺を擁した中本寺格の寺院でした。
新編武蔵風土記稿による泉澤寺の縁起
(上小田中村)泉澤寺
村の南の方中原道にかかれり、字神地と云。20石の寺領をたまへり。浄土宗にて京都知恩院末寺なり。寶林山運昌院と号す。開基は吉良右京太夫頼高なり。頼高の逝年を詳にせず。或は文明16年正月24日とも云へり。開山は好善和尚なり。延徳3年多摩郡烏山の地に当寺を建立すと。按に当寺の文書に天文18年9月此寺を今の地に引移すべきよしの催しあり。明る19年に至り再興せしこと見ゆ。此時かの烏山より移せしにや。又按に頼高を施澤寺殿といへり。又古へは当寺の領施澤村にありしと。是今の多摩郡廻澤村なるべし。此村は烏山村と接地なれば、廻澤村より移りしなるべし。或は那須の烏山にありしが、爰に引しとも云。此説はうけかひかたし。本尊弥陀は行基菩薩の作なり。長2尺四方なり。
寺宝。古文書十一通。(中略)
鐘楼。境内左の方にあり。4尺四方の棲なり。鐘銘もなく、年月等も見えず。
稲荷白山合社。是も寺を入て左の方小祠前に小き鳥居を建つ。
観音堂。門外に出て左の方にあり。3間に2間半、十一面観音を安ず。坐像立像2体あり。(新編武蔵風土記稿より)
川崎市教育委員会掲示による泉澤寺の縁起
泉澤寺
当寺は、浄土宗に属しています。
当寺は、延徳3年(1491)、武蔵国多摩郡烏山(現・東京都世田谷区)に吉良氏の菩提寺として創建されました。その後、天文18年(1549)、堂宇がことごとく焼失したため、その翌年、世田谷領主吉良頼康が、現在の中原区上小田中に新しく建立しました。当寺には、中・近世からの歴史を物語る数多くの文化財が所蔵されており、次の文化財は、川崎市重要歴史記念物に指定されています。[以下略](川崎市教育委員会掲示より)
「川崎市史」による泉澤寺の縁起
泉沢寺は上小田中村でも小杉村に境を接している神地にある。かつて世田谷の烏山にあったが、天文十九年(一五五〇)吉良頼高の菩提寺としてこの地に移されたと伝える。
泉沢寺は神地の市という暮の市で有名であった。この市の歴史は古く、天文十九年の文書に「上小田中市場より泉沢寺堀際まず寺門前として、諸役・公事・勧進以下一切の課役を免除する」旨の通達を出して、市の繁栄を促している。もともと泉沢寺門前はこのような楽市的な傾向が強かった。明治以降は神地の歳の市として一月二十八日(かつては月おくれの正月であったため、一月が年の暮になる)の市が有名になった。明治の終わりごろ神地の商店街の人が相談し、盛んにしたといわれるが、登戸や川崎、中原街道を下った現在横浜市の勝田・山田の方からも人が来た。売られていたものはざる・かど・くわ・などの農具、日用雑貨、衣類のほか正月用品のしめなわ・羽子板などである。これを小規模にした市は八月二十五日の施餓鬼にもたった。(「川崎市史」より)
泉澤寺のもと末寺
泉澤寺所蔵の文化財
- 泉澤寺文書(川崎市指定文化財)
- 銅造阿弥陀如来立像(川崎市指定文化財)
- 四天立像(川崎市指定文化財)
- 泉澤寺本堂(川崎市指定文化財)
古文書
古文書では、当寺再興に関する吉良頼康関係の判物、北条氏政の禁制(虎の印判状)、徳川家康の代官神屋重勝の寺領朱印状下附に関する書状、徳川氏奉行人連署奉書があります。(川崎市教育委員会掲示より)
銅造阿弥陀如来立像
仏像では、江戸城内にあった五代将軍徳川綱吉の霊廟に祀られていた木造・四天立像(広目店・多聞天・梵天・帝釈天)と、南北朝(14世紀)制作の銅像・阿弥陀如来立像が所蔵されています。(川崎市教育委員会掲示より)
泉澤寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿