大聖山吉祥院|行基菩薩創建との伝承、玉川八十八ヶ所
吉祥院の概要
真言宗智山派寺院の吉祥院は、大聖山地蔵寺と号します。吉祥院は、天平12年(740)行基菩薩が開基となり創建、良弁僧正が開山したと伝えられます。建武2年兵火により焼失、世田谷吉良氏が再興したものの没落とともに衰退、江戸期には無住となっていたものを、村人により再建されたといいます。玉川八十八ヶ所霊場61番です。
山号 | 大聖山 |
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院号 | 吉祥院 |
寺号 | 地蔵寺 |
住所 | 世田谷区鎌田4-11-18 |
本尊 | 大日如来像 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉川八十八ヶ所霊場61番 |
吉祥院の縁起
吉祥院は、天平12年(740)行基菩薩が開基となり創建、良弁僧正が開山したと伝えられます。建武2年兵火により焼失、世田谷吉良氏が再興したものの没落とともに衰退、江戸期には無住となっていたものを、村人により再建されたといいます。
世田谷区教育委員会掲示による吉祥院の縁起
大聖山吉祥院
縁起によると当寺は天平十二年(七四〇)行基の開基と伝え、同人の作による地蔵菩薩立像を安置し、東覚山と称していた。本尊は不動明王坐像で、開山良弁僧正の作と伝えられている。建武二年(一三三五)、兵乱により堂宇などが焼失し、その後は世田谷吉良氏が当寺を再興するが、天正十八年(一五九〇)主君北条氏の没落と共に滅び、以降は無住となった。近世後期、周辺の村人によって伽藍などが建てられ、現在の配置となる。また、当寺は玉川霊場第六十一番札所である。(世田谷区教育委員会掲示より)
せたがや社寺と史跡による吉祥院の縁起
吉祥院(鎌田町40)
東覚山吉祥院といい、天平12年(740)行基菩薩の創建になると伝えられ、新義真言宗智山派の寺院である。本尊は不動明王で台座とも1m程の木彫坐像で行基菩薩の作といわれる。
本堂入口の上に縦50cm横1m程の横額が掲げてあり、多摩川八十八ケ所霊場第六十一番吉祥院と記してある。これによって見れば当時、この地方の霊場として相当信仰のあつい寺院であったことがわかる。
その昔この地に60才位の老女がおり、いたく地蔵尊を信仰していたので、秦氏某が糧材を喜捨して堂宇を建立したという。昭和28年火災にあい、現在の建物は最近の建築である。外に弘法大師の自画像、興教大師筆の七観音画像もある。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による吉祥院の縁起
(鎌田村)吉祥院
除地、二段餘、小名本村の中ほどにあり、新義真言宗、橘樹郡小杉村最明寺末、東覚山と称す、寺傳に天平十二年行基菩薩開基なりと云、其比多磨郡鎌田の郷に齢六旬許の貧女あり、地蔵信仰のゆへに行者となり、朝夕御称を唱へて止ときなく供養せしが、其比帝の御願として行基菩薩勅を承り、諸国に伽藍建立の時堂舎を立給ふ、或時彼貧女末来成仏解脱の法をしめし給へと、行基にこふに其志を憐み、数月をへて翌十三年正月廿四日行基再び此里に至り。地蔵の尊像を彫刻し、礼拝供養すべしとてあたへり、其後貧女剃髪染衣の身となり、精舎を建るの志を企てけるに秦氏の某といへる富豪其志を感じ田園をそこばく寄付したれば、堂宇僧坊まで営みしが、後数百年をへて丙丁の災にかkり、堂宇悉く烏有となりしに、本尊は恙がなかりき、建武二年五月十日の兵事によりて、退転に及ぶこと久し、本尊は僅なる草堂を結びて安置し、其後世田ヶ谷吉良家領国の時、金銀仏具を寄付せられ、建立美を盡せり、天正十八年北條家没落の時無旦の寺となり、香花も絶まがちにて、信敬帰依の輩もなかりきといへり。本尊地蔵は木の立像一尺七寸、行基の作と云。
寺寳
不動像一軀。長一尺二寸許、良辯僧都の作と云。
弘法大師自画像一幅。
七観音絵像興教大師筆(新編武蔵風土記より)
吉祥院の周辺図