西明寺。川崎七福神の大黒天、玉川八十八ヶ所霊場、東国八十八ヵ所霊場、準西国稲毛三十三観世音霊場
西明寺の概要
真言宗智山派寺院の西明寺は、龍宿山金剛院と号します。西明寺の創建年代は不詳ですが、弘法大師が東国御巡化の蔡に子後二留錫し高弟泰範上人に命じ堂宇を建立したとも、最明寺入道々祟(北条時頼)が開基となり創建したとも伝えられます。江戸時代には隣地に小杉御殿が建立され将軍家の崇敬を受け、寛永19年(1642)には寺領10石の御朱印状を受領、近隣に末寺20余ヶ寺を擁す中本寺格の寺院だったといいます。玉川八十八ヶ所霊場20番、東国八十八ヵ所霊場9番、準西国稲毛三十三観世音霊場18番、川崎七福神の大黒天となっています。
山号 | 龍宿山 |
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院号 | 金剛院 |
寺号 | 西明寺 |
本尊 | 金剛界大日如来像 |
住所 | 川崎市中原区小杉御殿町1-906 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉川八十八ヶ所霊場20番、準西国稲毛三十三観世音霊場18番、川崎七福神の大黒天 |
西明寺の縁起
西明寺の創建年代は不詳ですが、弘法大師が東国御巡化の蔡に子後二留錫し高弟泰範上人に命じ堂宇を建立したとも、最明寺入道々祟(北条時頼)が開基となり創建したとも伝えられます。江戸時代には隣地に小杉御殿が建立され将軍家の崇敬を受け、寛永19年(1642)には寺領10石の御朱印状を受領、近隣に末寺20余ヶ寺を擁す中本寺格の寺院だったといいます。
新編武蔵風土記稿による西明寺の縁起
西明寺
村の中央海道のほとりにあり。新義真言宗京都醍醐三寶院の末山なり。龍宿山と号せり。古くは二宿山とも云りと傳ふ。最明寺入道々祟の開基なりと云傳ふれど慥なることを知らず。寛永19年8月17日寺領10石の御朱印を当村の内にてたまはりしより、今もかはらず境内も則寺領の内なり。当寺元は郡内有馬村にありしに、元弘の乱に鎌倉北条氏没落の後当村に鎌倉の浪人潜居してありしゆへ、其ゆかりをもて此村にうつりしといへどたしかに其年歴を傳へず。客殿12間に7間半、本尊大日如来の坐像を安せり。
天満宮。境内に入り左にあり。小祠南向境内の鎮守なり。
八幡宮。境内艮の方にありて西に向へり。
観音堂。境内に入り左にあり4間四方西方東向。十一面観音立像1尺2寸木像なり。
閻魔堂。表門を入て左にあり。3間四方。
鐘楼。門を入て右にあり9尺四方、享保17年壬寅12月の銘をえれり。
寺中。正覚院跡。境内南の方にあり。是も本尊御朱印地内なり。その廃せし年月を傳へず。(新編武蔵風土記稿より)
境内掲示による西明寺の縁起
龍宿山金剛院西明寺縁起
西明寺の名は遠く弘法大師が勅命を受て渡支(804)した際の宿坊の寺号に発し、帰国後大師の東国御巡化の砌りこの地に留錫し高弟泰範上人に命じ堂宇を建立す。その後北条時頼公(1263)の信仰篤く当時は最明寺とも称した記録がある。
近世徳川家康公も小杉御殿の隣地西明寺を崇敬し境内を殺生禁制の地と定め祈祷料として御朱印地を寄付された。
文化3年(1806)仁和寺宮一品親王より菊桐御紋章幔幕を下付された。当時の本堂(大正14年焼失)昭和9年新築の外、十一面観世音菩薩を安置する観音堂があり、寛永5年(1638)長谷川丹後守寄進の鰐口が現存している。また鐘楼堂(昭和38年改築)閻魔堂等七堂伽藍があったと伝えられる。
多摩川の両岸にわたり二十有余の談林として真言密教の法鼓を鳴らし今日に至っている。(境内掲示より)
西明寺のもと末寺
- 田園調布東光院
- 下丸子長福寺
- 下丸子蓮光院
- 瀬田慈眼寺
- 小杉御殿町無量寺
- 小杉御殿町成就院(非)
- 宮内常楽寺
- 宮内東樹院
- 上小田中長福寺
- 上小田中宝蔵寺
- 市ノ坪東福寺
- 諏訪明王院
- 子母口蓮乗院
- 木月大楽寺
- 北見方正福寺
- 馬引澤村西澄寺
- 鎌田吉祥院
- 用賀真福寺
西明寺の周辺図
参考資料
- 新編武蔵風土記稿