宗円寺|世田谷区上馬にある曹洞宗寺院

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八幡山宗円寺|若宮八幡宮の旧別当

宗円寺の概要

曹洞宗寺院の宗円寺は、八幡山と号します。宗円寺は、心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願(文保元年1317年寂)が開基となり創建、喜山正存和尚が寛永年間(1624-1645)に中興開基したといいます。明治維新後の神仏分離令まで、若宮八幡宮の別当を務めていました。

宗円寺
宗円寺の概要
山号 八幡山
院号 -
寺号 宗円寺
住所 世田谷区上馬3-6-8
本尊 釈迦如来像
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗円寺の縁起

宗円寺は、心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願(文保元年1317年寂)が開基となり創建、喜山正存和尚が寛永年間(1624-1645)に中興開基したといいます。明治維新後の神仏分離令まで、若宮八幡宮の別当を務めていました。

せたがや社寺と史跡による宗円寺の縁起

宗円寺
曹洞宗に属し八幡山宗円寺という。
開基心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願、文保元丁巴年10月23日寂となっている。「江戸名所図会」に、「八幡山宗円寺同所二子街道の左品川上水の端にあり、当寺は若宮八幡の別当寺なり洞家の禅院にして江戸駒込の大円寺に属す、本尊には座像の釈迦如来を安置せり、当寺は北条左近太郎入道の開創にして存応林可和尚中興なり」とある。
「新編武蔵風土記稿」には、創立当初は小さな草庵であったものを寛永年間に喜山正存和尚が中興開基したもので、当時は一時殆んど廃寺にもひとしい程衰頽していたために確かなことはわからない。
当寺の開基心覚宗門大庵主の過去帳記載の次に古文書の「名残常盤記」で知られている常盤の前が「香林院殿海岸宝樹大姉、天文壬未年七月七日神戸田中弁天常盤前御法名」と書かれている。
現在の本堂34坪、庫裏57坪の建物は、大正9年第37世雲外智山和尚の手によって改築されたが、現在は更に15坪増築されて庫裏72坪になっている。そして本尊釈迦如来を安置している。
当寺の境内に「しょうづかの御婆様」という小堂がある。江戸時代の初期の頃から当寺に杷られたもので疫病よけ特に百日咳に霊験あり、願をかけ病が平癒すると、そのお礼にあげる綿と茶(咳のためのどを綿でまき、茶でうるおしたところから)で常に埋もれているほど参詣する人が多かったといわれている。
しかし、いつしかその事も絶え、お堂も荒れはてたままになっていたが、昭和29年に土地の有志が「しょうづか講」をもうけ、お堂を改築して毎月8の日を縁日にしている。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による宗円寺の縁起

八幡山宗円寺(曹洞宗)
開基は心覚宗円大庵主北条左近太郎入道成願で、文保元年(1317)十月二十三日寂した。
当寺は若宮八幡宮の別当寺であった。本尊は釈迦如来坐像、創立当時は小さな草庵であったが、寛永十年(1633)喜山正存和尚が中興した。
境内に木像の「しょうづかの婆様」の小堂がある。江戸時代初期の頃からまつられたもので、疫病よけに霊験あらたかであるといわれている。(世田谷区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による宗円寺の縁起

(馬引澤村)(八幡社)別当宗円寺
除地一町一段一畝二十七歩、社地より巽の方へ三町余隔りて住す、曹洞宗にて江戸駒込大円寺の末なり、八幡山と号す、開基心覚宗円文保元年十月二十三日寂すと、又当寺の過去帳によるに、宗円は則経筒の銘にしるせし北條左近太郎入道成願がことなり、後にこの所に庵を結びて八幡を護せりと、是によれば起立の年歴も大抵おしてしられぬれと、宗円は北條左近太郎がことなりと云は疑うふべし、その故は経筒銘に徳治三年の頃は此人入道せしよし見ゆ、夫が文保元年に死せしといはば其間六十九年の後なり、かく長生なることおぼつかなし、宗円は自から別人なりとせばさもあるべきか、後世喜山正存和尚といひし人別当寺を開基せりと云、此人は寛永十八年六月二十八日寂せり、思ふに始は庵にて有るを、此人の世にかく中興せしならん、客殿七間に四間半本尊釈迦如来を安置せり。
寶物銅経筒一箇。円径二寸二分長四寸四分五厘、所々に損しありていかにも古代のものと見ゆ、中の筒は合せたる所離れ文字も磨滅して読がたきものあり、其儘に左に図せり(新編武蔵風土記稿より)


宗円寺の周辺図