経堂山福昌寺|地名発祥の堂を備えた寺院
福昌寺の概要
曹洞宗寺院の福昌寺は、経堂山と号します。福昌寺は、玄畝和尚(寛永8年1631年寂)が開山となり創建したといいます。玄畝和尚は中国よりの帰化僧で蔵書も多かったことから屋敷を経堂と呼んだことから当地名が起ったともいいます。
山号 | 経堂山 |
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院号 | - |
寺号 | 福昌寺 |
住所 | 世田谷区経堂1-22-1 |
本尊 | 釈迦如来像 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
福昌寺の縁起
福昌寺は、玄畝和尚(寛永8年1631年寂)が開山となり創建したといいます。玄畝和尚は中国よりの帰化僧で蔵書も多かったことから屋敷を経堂と呼んだことから当地名が起ったともいいます。
せたがや社寺と史跡による福昌寺の縁起
曹洞宗、常徳院の末寺で経堂山という。開山は年令玄甫大和尚で寛永8年(1631)3月18日に没したとあるので、寛永初年に開かれたものと思われ、松浦土佐守弥右衛門の建立である。この人は江戸幕府の医師で中国から帰化し、この付近の土地をほとんどもっていた。漢方医で本を多く所持し、家屋敷に僧を迎えて寺とした。蔵書が多かったので、土民はこれを「経堂」と呼んでいた。経堂についてはこの外2・3の説がある。
この村の開墾の始め頃に、一つの堂があり、そのつくり方が関東に見なれない京都風の堂であったので「京堂」というようになったともいう。
また仏経を納めた石室を埋め、その上に小さな堂を建てたので「経堂」というようになった、など伝えられている。
10世の大心博仙大和尚が堂を再建したが、当時悪病が流行し全村1軒残らず死んでしまったので、これを消除救済しようと人々から寄附をあおいで百体観世音を作り、関西、関東、33か所の霊地の土を持参して祀った。時に,寛延3年(1750)11月その結果悪病がたえたので遠近からの参詣者が多くなった。特に8月18日には観音講があり、四里四方から人々が集まり,非常な賑わいで店が多く出たが,時代が進むにつれさびれた。
また,この寺には,音色の良い半鐘(朝鮮型)がある。これは. 75軒の檀家の主婦の寄贈したもので,戦時中供出したが、余り音色が良いので、当局で使用していたため残ったものである。
本堂の横には閻魔堂があった。本堂改築のときに、4尺位の棟札が発見されたが、これには宝暦5年(1755)11月建立、棟梁深沢柏木長右衛門、経堂河野七右衛門とある。なお、本堂の柱受けは今も保存されている。庫裡は明和2年(1765)秋の大風で大破したので、安永2年(1773)3月に大工松原円吉が改築したものといわれ、また本堂の竜の彫刻は相当古いものといわれる。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による福昌寺の縁起
(経堂在家村)福昌寺
境内除地二段四畝五歩、村の東北の間にあり、禅宗曹洞派郡内世田谷村常徳寺の末、経堂山と號す、開山玄畝和尚寛永八年三月十八日示寂、本堂七間に五間半、本尊釈迦如来坐像一尺なるを安ず作知ず。
稲荷社。除地六畝十八歩、門を入て左にあり、二間に二間半。(新編武蔵風土記稿より)
福昌寺の周辺図