給田観音堂|徳川家息女の庵室だったとの伝承
給田観音堂の概要
給田観音堂は、世田谷区給田にある堂宇です。給田観音堂の創建年代は不詳ですが、徳川家(或いは紀州徳川家)息女の庵室だったとの言い伝えがあるといいます。
山号 | - |
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院号 | - |
寺号 | - |
住所 | 世田谷区給田3-15-20 |
宗派 | - |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
給田観音堂の縁起
給田観音堂の創建年代は不詳ですが、徳川家(或いは紀州徳川家)息女の庵室だったとの言い伝えがあるといいます。
新編武蔵風土記稿による給田観音堂の縁起
(給田村)観音堂
年貢地、字堂前にあり、二間半四方北向、千手観音にて長二尺許、村持(新編武蔵風土記稿より)
せたがや社寺と史跡による給田観音堂の縁起
創設の由来や沿革などについては不詳である。現在堂内には、千手観音と昭和32年本観音堂の近くの土中で発見された釈迦如来坐像が安置されている。
『新編武蔵国風土記稿』によれば「宇堂前ニアリ。二間半四方、北向。千手観音ニテ長二尺許。村持。」とあり、また昭和7年の給田観音堂記録(普門院給田観音堂ノ記ー昭和7年池亀一熙識・給田町管理責任者宍戸氏宅保管)によると、「本観音堂創設ノ由来等ハ未詳ナリ。尼ノ庵ナラント思考ス、右去ル高貴ノ息女(註徳川家ノ縁アル者、或ハ紀州ナリトモ伝フ)尼トナリ、庵ニ居住セラレタル旨伝フ。」とある。
云い伝えによれば、本観音堂脇にある宝篋印陀羅尼経之塔は、かつて甲州街道沿いにあったが、ここを通る徳川関係の者は、必ず下馬しなければならなかったので、後になってそのわずらわしさを取り除くため、現在の位置にうつしたといわれており、徳川関係の尼寺であったと推定される。その裏付けとして、英の刺繍紋のある錦の厨子掛様の布が、江戸牛込の済松寺から、この寺に送られたことが上記の記録にもあり、その布も、現在宍戸氏宅に保管されている。ただし、済松寺と尼寺の関係や、尼寺から現在の観音堂となるまでのいききつについては全く不詳である。なお、付近から釈迦如来像が、最近発見されたことについては「新修世田谷区史」上巻(昭和37年10月発行)の第二編、第五章、第八節の給回の陶仏の項にやや詳しくかかれている。要約すると「昭和32年9月末、観音堂の敷地の一部を宅地にするために、堂の南側にあった宝永年在銘の供養塔を移転させたところ、陶製の仏像が出土した。その詳細は不明であるが、地表から約1m程のところから出土し、破損していた。仏像は、全高75cm、蓮台に結伽扶坐した釈迦如来坐像と、十大弟子立像の中の阿難尊者と目蓮尊者の2体であり、製作年代、製作者は全く不明である。現在、一応修理して、観音堂に安置されている。」とある。(せたがや社寺と史跡より)
給田観音堂の周辺図