常徳山玄照寺|芝白金に創建、昭和2年当地へ移転
玄照寺の概要
日蓮宗寺院の玄照寺は、常徳山と号します。玄照寺は、小湊誕生寺第十八世忠禅院日延上人が開山、覚隆院日諦上人が開基となり慶長19年(1614)芝白金に創建したといいます。第二十五世伊丹霊瑞(瑞牙院日光上人)の代・昭和2年当地へ移転したといいます。
山号 | 常徳山 |
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院号 | - |
寺号 | 玄照寺 |
住所 | 世田谷区北烏山4-21-1 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 墓地募集中 |
玄照寺の縁起
玄照寺は、小湊誕生寺第十八世忠禅院日延上人が開山、覚隆院日諦上人が開基となり慶長19年(1614)芝白金に創建したといいます。第二十五世伊丹霊瑞(瑞牙院日光上人)の代・昭和2年当地へ移転したといいます。(下記縁起は玄照寺様よりご教授いただいた内容です)
玄照寺の縁起
当山は慶長十九年(1614年)開山小湊誕生寺第十八世忠禅院日延上人、開基覚隆院日諦上人によって広宣流布、万民教化の為、芝白金の地に開かれる。文禄元年(1592年)太閤秀吉公朝鮮出兵文禄の役の際、小西行長が加藤清正に請い朝鮮王子の臨海君・順和君の二人の王子を捕らえるも両国講和を結び、朝鮮へ送還する代りに臨海君の男女二人の子を我が国に迎え、それより清正公が慈念を以て苟育した弟君がのちの開山忠禅院日延上人である。又姉君は庭瀬藩主戸川肥後守の奥方となり、信仰の念厚く、爾来、戸川家子々孫々当山寺門興隆、外護の任を尽くしている。元禄二年(1689年)第三世恵眼院日?上人の代に五代将軍綱吉公より、碑文谷法華寺の末寺から身延山久遠寺直末たること申しつけられる。第二十五世伊丹霊瑞(瑞牙院日光上人)の代に至り、関東大震災後の区画整理の為、昭和二年(1927年)芝白金の地より当烏山の地に移転し現在に至る。なお当山の日蓮大菩薩は、雨乞い(女乞い)の祖師として知られ農家の人や女人の信仰が厚い。墓所には戸川家代々の墓、堂内には子育鬼子母神像、大黒尊天像、清正公像などが勧請安置されている。
新編武蔵風土記稿による玄照寺の縁起
玄照寺
境内年貢地583坪、村の西にあり。法華宗身延久遠寺末、常徳山と号す。開山忠禅院日延聖人、慶長19年草創す。その頃より碑文谷法華寺(現円融寺)の末山なりしが、元禄年中法華寺御咎をかうふりし後今の本山に従へりとぞ。本堂6間に5間。本尊宗祖日蓮の像は妙顕寺第二世大覚僧正の作なり。(新編武蔵風土記稿より)
玄照寺の周辺図