霊照山専光寺|喜田川歌麿の墓
専光寺の概要
浄土宗系単立寺院の専光寺は、霊照山蓮池院と号し、慶長9年貞蓮社穏誉上人が品川に開山、馬喰町への移転を経て浅草新寺町へ移転しました。関東大震災後の昭和2年当地へ移転しています。境内には喜田川歌麿の墓があります。
山号 | 霊照山 |
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院号 | 蓮池院 |
寺号 | 専光寺 |
住所 | 世田谷区北烏山4-28-1 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
宗派 | 浄土宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 喜田川歌麿の墓 |
専光寺の縁起
専光寺は、慶長9年貞蓮社穏誉上人が品川に開山、馬喰町への移転を経て浅草新寺町へ移転しました。関東大震災後の昭和2年当地へ移転しています。
せたがや社寺と史跡による専光寺の縁起
浄土宗で、霊照山蓮華院専光寺と号する。江戸浅草にあり、関東大震災後、昭和2年当地に移転した。本尊は阿弥陀如来。
喜田川家の菩提寺が当寺であったため、美人画の作者として、その艶麗な画風で世界的に名声を博した歌麿の墓がたてられた。
江戸時代の浮世絵師、姓は北川、名は市太郎のち勇助。文化3年(1806)に54歳で没した。墓には「北川」その上に「釈円了教信士」と刻まれている。
初期の作には、絵本類もあるが、代表作には、「婦人相学十躰」や「婦女人相十品」などがあり、美人画に新しい世界を開拓した。
文化元年(1804)「太閤落東吾妻観之図」と題する風俗画を発表したため、幕府政治を非難風刺するものであるとみなされて罪にとわれ、手鎖の刑に処せられたため、2年後に没した。
昭和31年都旧跡に指定された。
喜田川歌麿の墓にほど近いところに、「仁興玆雲義楽士」と刻まれた和唐紙の創始者中川儀右衛門の墓がある。
儀右衛門は、京都山城に生まれ、屋号を山城屋。号を朝正亭義楽と称した。
文化初年(1804)頃江戸に下り、神田に住んで紙類を商っていた。そのころ、中国から唐紙が輸入されていたが、それらのものをもとに、「和唐紙」を創りだした。これらの資料は、王子の製紙博物館に集められている。
また、平賀源内と同様、火浣布(石綿布)を創りだしたり、越後からでる「臭水」(石油)といわれたものを精製して、灯油のかわりに売りだしたりもした発明家である。(せたがや社寺と史跡より)
御府内寺社備考による専光寺の縁起
増上寺末 浅草新寺町 霊照山蓮池院専光寺、境内拝領地600坪余内門前町屋有。
当寺起リ者慶長9年拝領仕、元地品川ニ有、神君様御入国之節馬喰町へ引、明暦3年正月大火之後此地ヘ替ル。
開山貞蓮社穏誉上人、元和7年9月25日寂。
本堂4間半6間。本尊阿弥陀如来、観音勢至、銅地蔵尊、無量寿之額字定玄和尚筆。
鎮守熊野社4尺四方、神体座像丈2寸許。以上乙酉書上。(御府内寺社備考より)
専光寺所蔵の文化財
- 喜田川歌麿墓(東京都指定文化財)
喜田川歌麿墓
喜田川歌麿(1753-1806)は武蔵国川越に生まれたというが詳らかではない。初号を豊章と称し、最初黄表紙や洒落本の挿絵を描き、風景画を得意とし、精密な自然描写にすぐれたが、のち美人画に転じ、版元蔦屋重三郎の援助を受けてから本領を遺憾なく発揮、浮世絵界に新風を送った。喜田川派の祖であり、かれの作品は天明、寛政期の浮世絵版画の黄金時代を代表するものである。
文化元年(1804)「太閤五妻遊」をかいたため入牢に処せられた。代表作には「婦人相学十躰」「婦人泊り客」などがある。かれの画風はフランスの印象派に大きな影響を与えた。文化3年(1806)9月20日、54歳で歿し、浅草新堀専光寺墓地に葬られたが、大正12年の震災で焼失、区画整理のため昭和3年4月、現在地に移転されたものである。
専光寺の周辺図