来迎山宗福寺|関東大震災後、日暮里から移転
宗福寺の概要
浄土宗系単立の宗福寺は、来迎山と号します。青蓮社浄誉上人(慶長6年1602年寂)が新堀(日暮里)に大光山宗福寺光明院として開山したといいます。関東大震災後、当地へ移転しました。
山号 | 来迎山 |
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院号 | - |
寺号 | 宗福寺 |
住所 | 世田谷区北烏山5-10-1 |
宗派 | 浄土宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
宗福寺の縁起
宗福寺は、青蓮社浄誉上人(慶長6年1602年寂)が新堀(日暮里)に大光山宗福寺光明院として開山したといいます。関東大震災後、当地へ移転しました。
新編武蔵風土記稿による宗福寺の縁起
宗福寺
浄土宗芝増上寺末、来迎山光明院と号す。本尊弥陀。開山浄誉慶長6年10月7日寂す。
天明社。(新編武蔵風土記稿より)
せたがや社寺と史跡による宗福寺の縁起
江戸志、江戸紀聞、新編武蔵風土記稿、東京府志料、東京府村帳等の記述を総合すると、江戸志や江戸紀聞にはと記されているが現在では来迎山宗福寺と呼んでいる。新編武蔵風土記稿では寺号の後に光明院と付けているので、これらの記述は何時か山号が変更になったのではないかと考えられる。
宗福寺は浄土宗に属し増上寺の末寺で、荒川区日暮里道灌山の下にあった。もともと日暮里は新堀といっていたものがなまったもので、その社の中央に寺地東西30間、南北28間、面積830坪を有していた。さらに東京府志料によれば1634坪の広大な寺地を有していたという。
開山は青蓮社浄誉上人(慶長6年10月7日に示寂)であり、本尊は楠阿弥陀で行基の作になると伝えられている。(江戸志、江戸紀聞)
住職の話によると安政2年(1855)11月の江戸大地震のために過去帳は焼失したものと思われ、現在の記録は安政以降の記録に頼っているとのことである。
慶応4年(1868)江戸城開城に反対した彰義隊による戊辰の役では同寺には直接の話しは伝わっていないが檀家のうちには隊士をかくまった家もあるというが、檀家の悉くは農家であった。(せたがや社寺と史跡より)
宗福寺の周辺図