龍華山永安寺|足利基氏の子が鎌倉大蔵谷に創建、家臣が当地で再建
永安寺の概要
天台宗寺院の永安寺は、龍華山長壽院と号します。永安寺は、足利基氏の子氏満(永安寺殿)が鎌倉大蔵谷に臨済宗永安寺として創建したものの、氏満の子持氏が上杉憲実に敗れ当寺で自害、その後廃れたものを、家臣の清仙上人(二階堂秀高入道)が当地に延徳2年(1490)改めて創建したといいます。その後天台宗に宗旨を改めてより後、慈光國圓(元文三年寂)が中興したといいます。
山号 | 龍華山 |
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院号 | 長壽院 |
寺号 | 永安寺 |
住所 | 世田谷区大蔵6-4-1 |
本尊 | 千手観音像 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
永安寺の縁起
永安寺は、足利基氏の子氏満(永安寺殿)が鎌倉大蔵谷に臨済宗永安寺として創建したものの、氏満の子持氏が上杉憲実に敗れ当寺で自害、その後廃れたものを、家臣の清仙上人(二階堂秀高入道)が当地に延徳2年(1490)改めて創建したといいます。その後天台宗に宗旨を改めてより後、慈光國圓(元文三年寂)が中興したといいます。
せたがや社寺と史跡による永安寺の縁起
永安寺(大蔵町53の8)
天台宗、竜華山長寿院永安寺と称する。本尊は恵心僧都作といわれる1m程の千手観音像である。足利基氏の子氏満は永安寺殿と号し、鎌倉の大蔵谷に堂宇を開創し、その法号をとって永安寺と称した。後氏満の子持氏は上杉憲実に攻められてこの寺において自害し、その子成氏の時永安寺は廃れた。持氏の遺命により生残った二階堂信濃守の子清仙上人(二階堂秀高入道)が寺の再興を願い、武蔵国中丸郷大蔵村は鎌倉の大蔵谷と同じ地名であるというのでこの地に寺を建てて同じ寺名の永安寺と号した。これがこの寺の起りである。時に延徳2年(1490)3月。
その後明徳(1655~1657)の頃、石井兼忠がその父兼雄の追福のために新らしく堂宇を造修した。寛保2年(1742)にも再建されたが、現在の堂宇は昭和35年の建立である。
秘仏石薬師は約2尺7寸(90cm)の自然石で、もとは寺の門前にあったが霊験いちじるしいため人々は恐れて境内の丘にうづめた。時の住職はこれを惜んで堂内に安置したといわれる。境内には樹令数百年といわれる大銀杏がそびえている。
本堂左手には江戸幕府書物奉行石井至穀一家の墓域がある。至穀の祖先は三浦党より出で、石井氏初代内匠兼実は北条氏康に仕え、その後また吉良家に属し、大蔵村石井戸に住して天正9年6月この地に没した。子の兼綱は吉良氏朝に仕え、吉良氏没落の後江戸幕府に仕え、大蔵村殿山に住し文禄4年(1595)に没した。6代兼重は、書、和歌、俳詰に長じ、鷹術に巧みで、江戸幕府に仕え御鷹匠頭小栗長右衛門組に配せられて鳥見役を仰せつけられた。又元禄3年(1690)永安寺前に玉川文庫を造立して喜多見氏の遣した和漢の書を収蔵し望む人あれば閲覧に供した。実に世田谷における図書館の濫觴である。又菅刈学舎を開いて郷党の人々に教授するなど、地方文化の向上に貢献すること大なるものがあった。その子至穀は寛政12年(1800)主川文庫を再建し、文化6年(1809)学問所勤番となり、嘉永4年(1851)累進して書物奉行となったが、安政6年(1859)4月17日82才の高令を以て没した。法号栴樹院花真白太居士、その夫人と共に丘を背にして静かにねむっている。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による永安寺の縁起
(大蔵村)永安寺
天台宗、府中深大寺村深大寺の末、龍花山長壽院と號す、客殿八間に六間、坤の方を向ふ、本尊千手観音木の立像長三尺許、開山清仙寂年を傳ふ、中興は慈光國圓元文三年四月廿四日寂す、今客殿に安する石薬師は、自然石にして長二尺七寸許、相傳ふ昔は當寺の門前にありしが、霊現のいちじるしきを恐て境内の丘上に埋めありしが、當住に至りかかる霊佛を埋置事を嘆き、穿ち得て是に安。
観音堂。門を入て左にあり、二間四方、氷川社の本地佛なりと云、木の坐像長一尺八寸許。
疱瘡神祠。客殿の西にあり。
遮軍神祠。同じ邊にあり。
稲荷山王天満宮合祠。客殿の後上にあり。
古碑一基。延徳元年六月六日のみえる断碑なり。(新編武蔵風土記稿より)
永安寺の周辺図