幽谿山密蔵院|榎本河内重泰の養子但馬定宗が開基、玉川八十八ヶ所
密蔵院の概要
真言宗豊山派寺院の密蔵院は、幽谿山観音寺と号します。下野国都賀郡水代から移住してきた榎本河内重泰の養子但馬定宗が開基となり、都賀郡から来た僧頼慶法師を開山として慶長3年(1598)創建したといいます。江戸期には上北沢勝利八幡神社の別当を務めていた他、安楽寺を明治8年(1875)合併しました。玉川八十八ヶ所霊場45番です。
山号 | 幽谿山 |
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院号 | 密蔵院 |
寺号 | 観音寺 |
本尊 | 不動明王立像 |
住所 | 世田谷区桜上水2-24-6 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 玉川八十八ヶ所霊場45番 |
密蔵院の縁起
密蔵院は、下野国都賀郡水代から移住してきた榎本河内重泰の養子但馬定宗が開基となり、都賀郡から来た僧頼慶法師を開山として慶長3年(1598)創建したといいます。江戸期には上北沢勝利八幡神社の別当を務めていた他、安楽寺を明治8年(1875)合併しています。
せたがや社寺と史跡による密蔵院の縁起
新義真言宗小石川護国寺の末寺で,幽谿山観音寺という。天正の頃下野国都賀郡水代の城主榎本河内重泰は故あって城を退き、その子文右衛門氏重を連れてこの地に来た。その頃、吉良家の家人鈴木新平重貞がこの地の地頭をしていた。重泰はこの人と親しくなり天正8年(1580)ここに住居を定めた。その後,下野国都賀にいた僧頼慶法師は氏重のここに住んでいることをきき、尋ねきて重貞とも親しくなった。法師は学徳ともに優れ稀にみる高僧であった。重貞は法談などを聞いて、深くこの法師に帰依し当所の観音堂に住まわせた。その後重貞の養子但馬定宗の代になって慶長3年(1598)に観音堂を再建、一寺として頼慶和尚を住職とした。
本尊は、不動尊の立像で作者は不明、宝暦12年(1762)9月本郷六郎左衛門が彩色して安置した。本堂の前に観音堂がある。その中に西国,坂東,秩父などから集めた百体観音があり世田谷11番目の札所となっている。観世音菩薩は銅仏で,施主は鈴木左内仁右術門、享保15年(1730)に造立したものである。盆の17日には遠近からの参拝者で門前市をなしたのも昔の夢で、今ではそのおもかげもない。なお閻魔堂、位牌堂などあったが、今はない。また、この寺は近くの上北沢勝利八幡神社の別当も兼務していた。
この寺は、上北沢の鈴木家累代の菩提所になっている。現在の本堂は、延享1年(1744)の建立、村内にあった安楽寺が明治8年に合併された。
もと本堂の前庭にあった提灯桜は、非常に見事なもので遠方からの見物人もあったが、惜しいことにこの名木もまもなく枯れてしまい、ただ当時の絵に枝垂桜としてしのぶだけである。墓地には「世田谷私記」の著者穂積隆彦の五輪塔がある。(せたがや社寺と史跡より)
世田谷区教育委員会掲示による密蔵院の縁起
幽谿山密蔵院
天正の頃、下野国都賀郡水代の城主榎本河内重泰は、故あって城を退き、その子文右衛門氏重と共に当地をおとづれ、当時世田谷城主吉良氏の家人で地頭であった鈴木新平重貞と親しくなり、天正8年(1580)ここに居を定めた。
その後、下野国都賀都の僧頼慶法師が榎本父子のもとを尋ね、鈴木重貞とも親しくなった。
重貞は、法師の学徳共にすぐれた高僧であるのに深く帰依し、当所にあった観音堂に住まわせた。
慶長3年(1598)重貞の養子但馬定宗が観音堂を再建し、一寺として頼慶和尚を住職としたという。
本尊は不動明王立像。宝歴12年(1782)9月に本郷六左衛門が彩色して安置したという。
観音堂には百体の観世音菩薩をまつる。
延享元年(1744)ここに建立されたという村中の安楽寺を明治8年(1875)に合併している。(世田谷区教育委員会掲示より)
密蔵院の周辺図