獅子山行善寺|長崎伊予守重光が開基、玉川六阿弥陀
行善寺の概要
浄土宗寺院の行善寺は、獅子山西光院と号します。永禄年間に開山法蓮社印誉上人伝公和尚、開基長崎伊予守重光(法名行善)として創建しました。寛永年間に台地下から台地上の当地へ移りましたが、風光明媚な場所でもあったことから行善寺八景として知られ、徳川将軍の立ち寄りもあったといいます。玉川六阿弥陀4番です。
山号 | 獅子山 |
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院号 | 西光院 |
寺号 | 行善寺 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
住所 | 世田谷区瀬田1-12-23 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
行善寺の縁起
行善寺は、永禄年間に開山法蓮社印誉上人伝公和尚、開基長崎伊予守重光(法名行善)として創建しました。寛永年間に台地下から台地上の当地へ移りましたが、風光明媚な場所でもあったことから行善寺八景として知られ、徳川将軍の立ち寄りもあったといいます。
せたがや社寺と史跡による行善寺の縁起
浄土宗、獅子山西光院といい、喜多見の慶元寺の末寺である。
開基は長崎伊予守重光(法名行善)で、過去帳によると、長崎氏は今川義元の家臣となっているが、後北条氏につかえたものらしい。天正18年(1590)に北条氏が没落したとき、瀬田郷に土着した、そのまえの永禄年間(1558~69)に伊予守重光は小田原の菩提所道栄寺から、先祖のいはいをたずさえて、瀬田郷にきたという、これをまつった寺が行善寺の前身である。
開山は法蓮社印誉上人伝公和尚であり、本尊は阿弥陀如来である。
寺宝には「玉川出現楠薬師仏があった獅子山行善寺、瀬田村、寛永2年の頃矢藤権兵衛と云者、玉川の流八幡下から百網にて引上る、取之」(武蔵演路)また「当寺縁起に六斉念仏おどり、此草より始めるといえり」とある。享保5年(1720年)10月12日の念仏同行19人の像が墓地の入口にある。
天保年間に11代将軍家斉のおなりや、12代将軍家慶の世つぎの右大将家定の休息があった。江戸時代多摩川の水害がたびたびあったので、生活を打開するため、台地上の開発がおこなわれるようになり、寛永3年(1626年)重光から4代の四郎衛門尉嘉国の時、行善寺下西北10数町歩の「下屋敷」から「原」へ上った。行善寺もその頃まで坂下にあったと考えられる。
近くの慈眼寺や御嶽権現は31年後の万治年中に台地上に移されている。
行善寺の建物は、明治19年の火災で多くの寺宝と共に焼失している。以後木造の寺が再建されたが、昭和39年11月本堂、客殿などが現代風の鉄筋に新築され、遠く多摩川堤付近からも、そびえて見える。
成島司道の『玉川遊記』にあるように、この台地は眺望が極めてよいことで世に知られ、瀬田の黄稲、岡本の紅葉、大蔵の夜雨、登戸の晩鐘、富士の晴雪、川辺の夕烟、吉沢の暁月、二子の帰帆は行善寺八景として知られていた。
長崎家当主行重氏は、重光入道行善から15代である。10代範重は二子村と両持を命ぜられ、12代重行は、天保3年徳川家慶将軍玉川鮎御成のとき長崎家で休息、13代重国は旧幕府硝石御取締に任ぜられた事がある。(せたがや社寺と史跡より)
世田谷区教育委員会掲示による行善寺の縁起
獅子山西光院行善寺(浄土宗)
本寺の開基は長崎伊予守重光(法名行善)、開山は法蓮社印誉上人伝公和尚であり、永禄年間に建立された。
本尊は阿弥陀如来で、寺宝には玉川出現楠薬師があった。
この地は展望にめぐまれ、江戸時代から玉川八景として有名であり、将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った。
二子渡舟 太田子徳
玉くしけ二子のわたり明ぬやと 見しや鵜舟の篝也けり。(世田谷区教育委員会掲示より)
行善寺の周辺図