永劫山慶元寺|江戸太郎重長が創建、玉川六阿弥陀、多摩川三十三ヶ所観音
慶元寺の概要
浄土宗寺院の慶元寺は、永劫山花林院と号します。慶元寺は、江戸太郎重長が江戸城紅葉山の辺に天台宗岩戸山大沢院東福寺として文治2年(1186)に創建、康正2年(1451)祖先累代の墓碑とともに成城(元喜多見)へ移転、応仁2年(1468)当地へ移転したといいます。天文19年(1540)19世真蓮社空誉上人が中興開山となり、天台宗から浄土宗へ改宗の上山華林院慶元寺と改号、寛永13年(1636)11月9日徳川家光より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺6ヵ寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。多摩川三十三ヶ所観音霊場4番、玉川六阿弥陀2番です。
山号 | 永劫山 |
---|---|
院号 | 花林院 |
寺号 | 慶元寺 |
住所 | 世田谷区喜多見4-17-1 |
本尊 | 阿弥陀如来像 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
慶元寺の縁起
慶元寺は、江戸太郎重長が江戸城紅葉山の辺に天台宗岩戸山大沢院東福寺として文治2年(1186)に創建、康正2年(1451)祖先累代の墓碑とともに成城(元喜多見)へ移転、応仁2年(1468)当地へ移転したといいます。天文19年(1540)19世真蓮社空誉上人が中興開山となり、天台宗から浄土宗へ改宗の上山華林院慶元寺と改号、元和2年(1616)喜多見若狭守勝忠より寺禄5石5斗1升l合の除地を永続資料として寄進受けて中興開基、寛永13年(1636)11月9日徳川家光より寺領10石の御朱印状を拝領、近隣に末寺6ヵ寺を擁する小本寺格の寺院だったといいます。
世田谷区教育委員会掲示による慶元寺の縁起
永劫山華林院慶元寺
浄土宗、京都知恩院の末寺で、本尊は阿弥陀如来坐像である。
当寺は、文治二年(一一八六)三月、江戸太郎重長が今の皇居紅葉山辺に開基した江戸氏の氏寺で、当時は岩戸山大沢院東福寺と号し、天台宗であった。室町時代の中ごろ、江戸氏の木田見(今の喜多見)移居に伴い氏寺もこの地に移り、その後、天文九年(一五四〇)真蓮社空誉上人が中興開山となり浄土宗に改め、永劫山華林院慶元寺と改称した。
更に文禄二年(一五九三)江戸氏改め喜多見氏初代の若狭守勝忠が再建し、元和二年(一六一六)には永続資糧として五石を寄進し、また、寛永十三年(一六三六)には徳川三代将軍家光より寺領十石の御朱印地を賜り、以後歴代将軍より朱印状を賜った。
現本堂は享保元年(一七一六) に再建されたもので、現存する区内寺院の本堂では最古の建造物であるといわれている。
墓地には江戸氏喜多見氏の墓があり、本堂には一族の霊牌や開基江戸太郎重長と寺記に記されている木像が安置されている。
山門は宝暦五年(一七五五)に建立されたものであり、また、鐘楼堂は宝暦九年に建立されたものを戦後改修したものである。
境内には喜多見古墳群中の慶元寺三号墳から六号墳まで四基の古墳が現存している。(世田谷区教育委員会掲示より)
せたがや社寺と史跡による慶元寺の縁起
慶元寺(喜多見町3558)
本尊阿弥陀如来木彫座像、丈約1尺7寸(52cm)、台座は高約2尺5寸(76cm) 5重蓮華座、恵心僧都作という。境内は墓地山林とも1町2段(120a)、元天台宗であった当寺は江戸氏の民寺として文治2年(1186)3月同氏の祖四郎重継菩提のため長男兵衛尉江戸太郎重長によってその館付近今の皇居紅葉山の辺に創立した岩戸山大沢院東福寺の後身である。爾来271生存を経て康正2年(1451)10代の末孫江戸重廉20才の時太田道灌の奸計によって霊夢などと偽られ祖先累代の墓碑とともに今の成城(元喜多見)の一隅に移転した来たが、火災に遇い、ついで害多見町前河内に移り、応仁2年(1468) 7月12日の大洪水のため堂宇寺宝旧記などを失い現在地に移ったといわれている。天文19年(1540)19世真蓮社空誉上人を中興開山と称し、天台より浄土に改宗、第1代となり永劫山華林院慶元寺と称し、京都知恩院の末寺となり、明暦年間(1656前後)末寺6寺を定めた。すなわち当町の光伝寺、岩戸の慶岸寺、柴崎の光照寺、車返の本願寺、瀬田の行善寺、宿河原の竜安寺である。ついで貞享2年(1685)小机の泉谷寺の客末となる。寛永13年(1636)11月9日徳川家光より寺領10石の朱印状を受け以後代々の将軍よりの朱印は幕末まで続いた。これより先元和2年(1616)喜多見若狭守勝忠中興開基となり、寺禄5石5斗1升l合の除地を永続資料として寄進し、寛永4年12月四日堺で卒し南宗寺に葬られたが、慶元寺殿華林宗珍居土と法諡されている。宝永年中(1説2年<1705>)火災にあい、寺宝日記など多数失ったが、享保1年(1716)11 月11世教順和尚により再建されたのが現在の本堂である。大正12年閣東大震災や度々の風害により破損した本堂を昭和27年先代の鏡端師草屋根を瓦葺にした。寺宝としては徳川3代将軍家光以下家茂まで9通の朱印状、九品往生を現わず観経曼荼羅・涅槃像・閻魔像など以上3幅、喜多見若狭守座像台座とも約1尺3寸5分(41cm)の寄木造り、江戸(後喜多見〉喜多見氏系図・慶元寺由緒書などを蔵している。墓地内江戸太郎重長追善供養のための五輪塔を始め害多見氏の墓地を中心にかつて喜多見藩家臣団の墓碑が今なお沢山残っている。(せたがや社寺と史跡より)
新編武蔵風土記稿による慶元寺の縁起
慶元寺
境内除地、千百廿一坪、本村にあり、永劫山花林院と號す、浄土宗、小机泉谷寺の末、寛永十三年十一月九日十石の御朱印を賜へり、此外五石五斗一升一合は元の地頭喜多見若狭守が寄付なりしに、其後故あって罪を蒙り、所領をもことごとく収公せられしかど、この所はそのまま見捨地となれち、當寺は文禄二年の起立なるよし、又開山は空誉とて、文禄元年十二月六日の示寂なりといへど、文禄元年に遷化せし人の同き二年に開山せしは理り覚束なし、恐くは空誉を勧請開山とせしなるべし、開基は喜多見若狭守勝重寛永四年十二月廿六日寂せり、この人及び祖先の位牌墳墓等多くここにあり、本堂七間半に八間東向、本尊阿弥陀の木坐像臺座共に三尺五寸許を安す。
什寳
鎗。喜多見若狭守が納めしよし、長さ八尺許、穂は柳葉など云形にて長さ九寸許この外北見若狭守勝重寛永三年八月十九日の口宣をここに置り。
薬師堂。門を入って右にあり、二間半四方、木の立像長一尺許り。
蔵王権現祠。門を入て左にあり、纔なる祠、北向、この外境内に地蔵堂ありしに今は廃してなし、さればそこに置し地蔵、長二尺餘なるをば本堂に安ぜり。
鐘楼。門を入て左にあり、二間四方、鐘は長さ三尺、径り二尺六寸、元の鐘は延宝三年二鋳しよし後宝暦七年中せしと云へば銘はのせず。
古碑一基。境内にあり、元弘三年八月とあり、もとより何人の碑なる事をば傳ず。(新編武蔵風土記より)
慶元寺所蔵の文化財
- 徳川3代将軍家光以下家茂まで9通の朱印状
- 観経曼荼羅像・涅槃像・閻魔像
- 喜多見若狭守座像台座
- 江戸(後喜多見〉喜多見氏系図
- 慶元寺由緒書
- 江戸太郎重長追善供養のための五輪塔
慶元寺の周辺図