等々力不動尊明王院|世田谷区等々力にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

等々力不動尊明王院|等々力満願寺の別院、玉川八十八ヶ所、関東三十六不動

等々力不動尊明王院の概要

真言宗智山派寺院の等々力不動尊明王院は、滝轟山と号し、等々力満願寺の別院です。等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師が当地に不動堂を建立したと伝えられます。玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番です。

等々力不動尊明王院
等々力不動尊明王院の概要
山号 滝轟山
院号 明王院
寺号 -
住所 世田谷区等々力1-22-47
本尊 不動明王像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場33番、関東三十六不動霊場17番



等々力不動尊明王院の縁起

等々力不動尊明王院は、根来寺の興教大師(覚鎫版人、新義真言宗の祖)が当地に不動堂を建立したと伝えられます。

せたがや社寺と史跡による等々力不動尊明王院の縁起

滝轟山明王院
本尊は不動明王で真言宗智山派に属し満願寺の別院で、寺伝によれば、 1300年前推古帝の頃、役の行者(役の小角〉が霊夢を見、不動尊を彫られた。
800年前、和歌山の根来寺の興教大師がある夜夢を見られ「武蔵野国調布の丘」に不動尊を祀るよう告げられた。大師は不動尊を背負って、「調布の丘を経巡り、此地に来たり、澤泉を山頭より噴出するを見、併も山頭の辺り瑞雲霊愛雲建す。大師はその霊地なるを悟り、一宇を建立す。」「玉川栞」と、開基が物語られている。
本堂は、江戸末期の建造である。拝殿は昭和27年、山門は、昭和43年8月、満願寺改築の折移築したものである。
寺の南にある公園は、桜の名所として知られているが、玉川村耕地整理の折、村長豊田正治氏の発案の玉川村三公園の一つであって、氏の慧眼がしのばれる。
寺の西、石段の途中にある「神変大菩醸」は、役の行者の諡で行者をまつってある。石段を降りると二条の不動滝があり、今も行者が朝夕白衣を着て滝にうたれている姿を見かける。普は相当な水量があったらしく爆音が轟いたので「トドロキ」の地名が生まれたとの伝説がある。
この滝の崖は、上から黒土層、ローム層、含砂利層、粘土層と模式的な地層を示している。
この一帯は谷沢川(やざわ川、土地の人はやざ川という) 「等々力渓谷」といわれているが、多摩東岸の河岸段丘の隆起に先行して浸蝕し横谷を作ったと思われる。環状8号線や、宅地造成によって自然美が随分失われたが、ゴルゴ橋から六郷用水との川の立体交差点、までは東京とは思われぬ渓谷美であり、プロムナードとなっている。
また動物植物の宝庫でもあり、つい最近までここで、狐を見たという人がある。
谷沢川の上流の姫滝には、悲恋の伝説があったが、その滝は今はない。場所は野良田(世田谷区中町)である。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による等々力不動尊明王院の縁起

(等々力村)不動堂
字小山にあり、境内満願寺領なり。本尊はなし、今は幣束を立て祭れり。相傳ふ、当社の本尊不動尊は、昔故あって目黒村の内某なるものにかせしを、そのまま返さず、今目黒の不動尊と云もの是なり。よりて此堂には昔より本尊もなけれど、いかにも古社なれば世々村の鎮守としてあがむと、然るに目黒村不動堂別当所に傳ふる所は、かの堂は往古よりたてりしを、後に慈覚大師その地に来りしとき、村民の求めに応じて作りし不動尊なりといへり。事は其條下につきて見るべし。さればここに傳ふる所と何かまことなりや、今より知るべからず、しばらくきくままを爰にしるせり。本社一間四方、坤に向ふ。上屋三間、拝殿は二間に九尺にして巽に向ふ、例祭九月二十八日なり、別当を西光寺と云。
末社諏訪天神稲荷合社。本社の右にあり。(新編武蔵風土記稿より)

新編武蔵風土記稿による元別当西光寺について

西光寺
字宿と云所にあり、是も満願寺領の内なり、真言宗新義満願寺の塔頭にて、住慶山と号す。是も近き頃回禄の災にかかり、其後再造の沙汰にも及ばず、今はいささかの庵室たてり、本尊大日如来、坐像一尺五寸と云、此寺も開山開基ともに詳ならず。
(新編武蔵風土記稿より)


等々力不動尊明王院の周辺図