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実相院|世田谷区弦巻にある曹洞宗寺院

実相院の概要

曹洞宗寺院の実相院は、鶴松山と号し、勝光院中興開山の天永琳達大和尚の隠居寺として天正16年(1588)に創建しました。当地は世田谷吉良家の吉良氏朝夫婦(実相院殿前従四位下学翁玄参大居士、鶴松院快窓寿慶大姉)の閑居地で、夫婦の法名を山号院号としました。江戸期には、慶安元年(1648)に10石の御朱印状を拝領しています。

実相院
実相院の概要
山号 鶴松山
院号 実相院
寺号 -
本尊 薬師如来
住所 世田谷区弦巻3-29-6
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



実相院の縁起

実相院は、勝光院中興開山の天永琳達大和尚の隠居寺として天正16年(1588)に創建しました。当地は世田谷吉良家の吉良氏朝夫婦(実相院殿前従四位下学翁玄参大居士、鶴松院快窓寿慶大姉)の閑居地で、夫婦の法名を山号院号としました。江戸期には、慶安元年(1648)に10石の御朱印状を拝領しています。

せたがや社寺と史跡による実相院の縁起

曹洞宗に属し勝光院の末寺で、鶴松山実相院という。当寺の開基は、吉良左兵衛佐氏朝で開山は天永琳遠大和尚、元和2年(1616)8月11日示寂したという。
徳川時代に書かれた「世田谷私記」には「弦巻村実相院開基は蒔田左兵衛疲藤久である。学翁斉(氏朝のこと)が死んで、一寺を建立したようだ」として頼久(氏朝の子)を開基としでいるが、寺伝によれは氏朝を開基とみるのが妥当のようである。
かつて世田谷城主吉良頼康の時に、小田原の北条氏綱の娘崎姫と縁を結んだので、天正18年(1590)豊臣秀吉の軍のため、主城小田原城が落ちたので、世田谷城も没収された。時の城主吉良氏朝は、城山の館を放棄して、いったん下総国に下った。徳川氏が江戸城に入った後、氏朝も再びこの地に帰り閑居していた。その閑居した旧跡が、この実相院の地である。
武蔵国風土記稿によると、実相院境内に氏朝夫婦の碑あり。氏朝の碑面には、実相院殿前従四位下学翁玄参大居士、慶長8年(1603)9月6日卒と刻し、夫人の碑は鶴松院快窓寿慶大姉とあり、「当時ノ山号寺号モ、コノ二法号ノ字を用ヒタルペシ」と記されている。現在、境内にはこの石碑は見当たらないが、氏朝の位牌は本堂に安置されている。開山の天永琳達大和尚は天正10年(1582)頼康の招きで勝光院を開山、天正16年(1588)実相院に隠退、在任1年にて西多摩郡恩方村心源院に転任となっている。
将軍家光により慶安1年(1648)7月17日付で朱印地10石を与えられていたが、檀家数が少ない(12軒)ため慶応4年(1868)に朱印地を返上した。その後は寺の経営が苦しくなり、明治初年には本寺の勝光院との合併の話もおこり廃寺になる運命にまで追いこめられたが、住職はじめ僅かな檀家の努力により、由緒ある寺としてもちこたえたのである。
創立当時の本堂は6間に6間半あったが、明治以後は規模も一まわり小さく、5間に5間半になっていた。現在の本堂は昭和32年に改築されたものであるが、規模も昔の6間に6間半の大きさに復元された。
本尊は薬師如来である。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による実相院の縁起

寺伝によれば、当寺の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衛佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。
天正18(1590)年、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は城を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。
徳川家康が江戸入府後、氏朝は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長8(1603)年示寂した。
「新編武蔵国風土紀稿」には、「今境内二氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鳩松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と、記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。氏朝の位牌のみ本堂に安推せらる。
慶安元年(1648)年、家光より朱印地10石2斗2升を賜っている。(世田谷区教育委員会掲示より)


実相院の周辺図


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