金王八幡宮|渋谷区渋谷の神社

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金王八幡宮|河崎基家創建、渋谷金王丸常光、旧郷社

金王八幡宮の概要

金王八幡宮は、渋谷区渋谷にある神社です。金王八幡宮は寛治6年(1092)渋谷氏の祖、河崎基家が創建したと伝えられ、その後子のなかった渋谷重家が当神社に祈願したところ渋谷金王丸常光(土佐坊昌俊)を授かり、金王丸が活躍したことから、金王丸の名声に因み金王八幡宮としたといいます。江戸時代には、青山常陸介忠成に崇敬され、(徳川家光の乳母)春日局からの寄進も受け、下渋谷村・下豊沢村の鎮守、また江戸八所八幡の一つと称され、明治維新後には郷社に列格していました。境内には、源義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、源頼朝が当社にを寄附されたと伝えられる桜(金王桜)は植継を経て現存しています。

金王八幡宮
金王八幡宮の概要
社号 金王八幡宮
祭神 品陀和気命
相殿 -
境内社 御嶽神社、玉造稲荷神社、金王丸御影堂
例祭日 例祭日9月14日
住所 渋谷区渋谷3-5-12
備考 中渋谷村・中豊澤村鎮守、旧郷社



金王八幡宮の由緒

金王八幡宮は寛治6年(1092)渋谷氏の祖、河崎基家が創建したと伝えられ、その後子のなかった渋谷重家が当神社に祈願したところ渋谷金王丸常光(土佐坊昌俊)を授かり、金王丸が活躍したことから、金王丸の名声に因み金王八幡宮としたといいます。江戸時代には、青山常陸介忠成に崇敬され、(徳川家光の乳母)春日局からの寄進も受け、下渋谷村・下豊沢村の鎮守、また江戸八所八幡の一つと称されました。

新編武蔵風土記稿による金王八幡宮の由緒

八幡社
金王八幡と号す。古より中渋谷村の鎮守なり。分村の後も当村(中豊澤村)及中渋谷、又青山邊武家等の鎮守とす。神体被甲騎馬の像、長2尺、弘法大師の作と云。別当寺(東福寺)所蔵村岡五郎左衛門重義が書せし明応9年正月の縁起の略に、源義家奥州征伐の時、村岡五郎良文の孫秩父十郎武綱、同重家、父子従て軍忠を抽て、其賞として義家の一字を賜はり、基家と号し、氏を河崎と名つけ、当初谷盛の庄を宛行はる。又八幡加護の故を以て長元の昔源頼信秩父郡妙見山八幡社に納め置し日月二旗の内、月輪の旗を移し、神体として八幡を造営し、又六孫王経基天慶中平将門追討の時の館跡残りしを、一寺となし、親王院と名付け、当時の神体月輪の旗は霊物にて祟あることを第二十世住僧能澄夢想の告を蒙て、固く封して社下に埋め、今の神体に蒼しと云、後重家京都在勤の時、賊徒、渋谷灌介盛国と云ものを禁中にて搦捕ければ、時の天子堀川院賞せられ、土佐守に任し、渋谷を以て氏に命せらる。其後所領なれば爰に住せり。ゆえに渋谷の地名起れり。斯て重家当社に所願し、永治元年8月15日一子を儲け、名を金王丸と号す。十七歳の時左馬頭義朝に従ひ、鎌倉に趣く。其母名残を惜しみけれは、自から像を彫刻して是を残せり。是今安する所の像なり。後長田忠致か許にて義朝横死の時、金王丸忠戦し、従卒八人を討取、一方を切破て伊豆の土肥次郎か家に落行き、後古郷に帰て義朝追福のため薙髪し、土佐坊昌俊と改号せしか、治承年中頼朝に従ひ、石橋山合戦の後密に此渋谷に来り、八幡に参籠せり。此時昌俊か諫に依て伯父渋谷重国と頼朝に従ひ、重国の次男次郎高重を以て昌俊の養子とす。文治元年10月朔日源義経謀叛の間へのりけれは、頼朝より、義経追討のことを命す。昌俊採算辞すといへとも許されずよりて命に應せし時、霊像の薬師を賜はる。昌俊心安からさつ故ありて、彼薬師に書を添て鞍馬山に納め、同月23日義経か館を襲て終に害せらる。其後養子高重鞍馬山に詣て弘法大師彫刻の八幡の像、及昌俊か納し薬師の像を得て鎌倉に携来り。頼朝の免許を蒙り渋谷に帰て当社の神体とすと云云。按するに此像縁起疑ふへき事多し、殊に重国当所に住せしと云は尤誤なり。渋谷庄司重国は相州高座郡渋谷庄に住せしこと「東鑑」等にも見へたり。又鐘銘に據、は秩父六郎基家軍功の賞として当所を賜り、当社の別当院を建立し、寛治5年源頼家修冶を加へ、建久2年源頼朝殿堂を増修し、社参ありて僧宇の三号を賜ふ。後今の寺山院号に改む。又遥の星霜を経て大永年中の兵火に神社僧宇悉く烏有となる。慶長年中漸く再建に及ひ、元禄年中に至て別当慧順願上て新に社頭以下鐘棲坊舎に至るまで悉く落成すとあり。又記録に云、慶長年中青山常陸介忠成夢想のことありて厚く当社を信仰し、其子伯耆守忠俊も深く信しければ、春日局と謀て慶長17年3月13日竹千代君御武運のため、当社に於て御祈祷あり。9月15日竹千代君御元服ましまし、同17日社堂修造のため、春日局より金百両、伯耆守より材木若干を寄附す。元和元年8月より華表、瑞鑵等御寄附ありしよしを見ゆ。是に據ば、慶長以後幾程もなく再建成れり。鐘銘に元禄年間再建と云もの疑ふへし。
末社。高良明神、稲荷、天神。
絵馬堂。神楽堂。護摩堂。
鐘楼。寛永元年鋳造の鐘を掛く。
金王桜。金王丸彫像に頼朝より寄附せられしと云傳ふ。古木は枯て今は植継しものなり。花様一茎にして単弁重弁交錯す。此余松杉二株あり。囲各9尺許。共に神木とす。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による金王八幡宮の由緒

金王八幡宮は、寛治六年(皇紀1752年、西暦1092年)渋谷氏の祖河崎高家により鎮祭され、高家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語・吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く美しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代(德川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として数多の崇敬を集めております。(境内掲示より)


金王八幡宮所蔵の文化財

  • 金王八幡宮社殿及び門(渋谷区指定有形文化財)
  • 金王桜(渋谷区指定天然記念物)
  • 大江山鬼退治之図(渋谷区指定有形文化財)
  • 算額(嘉永3年・安政6年・元治元年)(渋谷区指定有形文化財)

金王八幡宮社殿及び門

社記によると、この神社は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092)に創建したといわれます。
現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸時代初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
門は、明和6年(1769)と享和元年(1801)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立には違いありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
このあたり一帯の高台は、平安時代末期から渋谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、居館を囲んでいるうえ、かつては数ヶ所に湧泉があるという好条件を備えていました。
しかし、その居館は大永4年(1524)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
平成二十二年には、社伝に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が追加指定されました。(渋谷区教育委員会掲示より)

金王桜

長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は5-7枚ですが、雄しべが花弁化したもの交じっていて、一枚に一重と八重の花が入り混じって咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。
この桜については、さまざまな伝承がありますが、「金王神社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。
また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。(渋谷区教育委員会掲示より)

大江山鬼退治之図

二面とも青山百人組から延宝三(一六七五)年、金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した「御伽童子」に基づく絵馬です。
この鬼退治物語を描いた絵馬は、各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面」(その一)と「鬼退治場面」(その二)の二枚の絵に表現したものは作例としても珍しく、また細密な筆致と豊かな色彩から見て買いがとしても優品です。
大きさは二面とも縦七八・五ⅹ横一〇五センチメートルです。(渋谷区教育委員会掲示より)

算額

古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をとげた和算の絵馬です。
算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈願のほかに質問を提起して名を広めようとする意図もあったと考えられます。
この三点は、武家地域と商業地域の接点であった宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目されます。そのうちの安政六(一八五九)年の一点は、西条藩の武士により奉納されました。また、元治元年奉納の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。(渋谷区教育委員会掲示より)

金王八幡宮の周辺図