代々木八幡宮|源氏ゆかりの荒井宗裕が鎌倉時代初期に創建、代々木八幡遺跡

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代々木八幡宮|源氏ゆかりの荒井宗裕が鎌倉時代初期に創建、代々木八幡遺跡

代々木八幡宮の概要

代々木八幡宮は、渋谷区代々木にある神社です。代々木八幡宮は、建歴2年(1212)に源氏ゆかりの荒井宗裕が、源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり創建したと伝えられます。当地は、石器時代には海岸のほとりにあたり、魚介類や木の実など食料が豊富にあったことから、石器時代・縄文時代の遺構が発掘され、境内には竪穴式住居が復元されています。江戸期には、代々木村の鎮守となっていました。

代々木八幡宮
代々木八幡宮の概要
社号 代々木八幡宮
祭神 応神天皇
相殿 -
境内社 榛名社、天神社、稲荷社、出世稲荷大明神
祭日 -
住所 渋谷区代々木5-1-1
備考 代々木村の総鎮守、別当福泉寺


※御朱印はいけみずさんより寄贈


代々木八幡宮の由緒

代々木八幡宮は、建歴2年(1212)に源氏ゆかりの荒井宗裕が、源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり創建したと伝えられます。

新編武蔵風土記稿によるに代々木八幡宮の由緒

八幡社
村(代々木村)の鎮守なり。建歴2年壬申荒井宗裕と云もの起立すと傳ふ。事蹟詳ならず。福泉寺持。
神楽殿。
末社天神、稲荷。(新編武蔵風土記稿より)


代々木八幡宮所蔵の文化財

  • 絵馬「代々木八幡縁起絵」(渋谷区指定有形民俗文化財)
  • 絵馬 伝「神功皇后之図」(渋谷区指定有形民俗文化財)
  • 代々木囃子(渋谷区指定無形民俗文化財)
  • 代々木もちつき唄(渋谷区指定無形民俗文化財)
  • 代々木八幡遺跡と石器時代住居(渋谷区指定史跡)

絵馬「代々木八幡縁起絵」

代々木八幡宮社伝によると、源頼家の家臣、近藤三郎是茂の家人荒井外記智明は、頼家が修善寺で殺害された後に名を「宗友」と改めて代々木に引きこもり、建暦2(1212)年8月15日夢の中で大神から宝珠のような鏡を授かったので源氏の守り神である鶴岡八幡宮の分霊をまつり、小祠を営んだのが代々木八幡宮の創建といわれています。
この絵馬は、その経過を表現したもので、このような作例は少なく筆致も優美なものです。天保12(1841)年に奉納された縦139x横186cmの大絵馬です。(渋谷区教育委員会掲示より)

絵馬 伝「神功皇后之図」

神功皇后に関する神話の絵馬で、神功皇后とその乳飲み子(後の応神天皇)、従臣の武内宿禰が描かれています。
一般に見られる作例と異なり背景の表現は少なく、人物を主体とした構成と雄渾な作風は、その彩色とともに明らかに芝居絵と共通している点で注目されます。
天保11(1840)年に奉納されたものですが、このような大絵馬(縦139cmx横194cm)が、芝居関係者の参詣が多かった江戸下町の有名社等の場合とは異なり、江戸の郊外であった代々木に存在していたのは珍しいことです。(渋谷区教育委員会掲示より)

代々木囃子

代々木囃子は、江戸末期に代々木八幡宮の中で行われていた「目黒流囃子」を、時の神官が地域の農民に教えたことに始まるといいます。現在、保存会が使用している囃子鉦に「天保2年辛卯二月 代々木若」という記銘があり、言い伝えは信憑性が高いと思われます。その後、明治・大正期と盛んに行われましたが、関東大震災の時に一時中断しました。昭和に入っても継続されますが、第二次せ界大戦が始まってからは低迷し、ついに中断を余儀なくされてしまいました。戦後、氏子らが先頭に立って復興させ、昭和21年に「代々木囃子保存会」を結成し、その保存活動を続け、現在に至っています。
「代々木囃子保存会」は、代々木八幡宮の祭礼を中心に活動を続けています。2月の初午祭、5月の五社宮祭、9月の例大祭に町内を廻り、最後は神社に奉納します。このほか、正月には保存会の会員や依頼のあった家などの門口で獅子舞と一緒に演奏して廻り、最後は代々木八幡宮に奉納しています。(渋谷区教育委員会掲示より)

代々木もちつき唄

代々木の餅つきは、現渋谷区の初台、西原、上原一帯で、農家が5、6軒を一単位として共同で行われていました。
歳末の早朝から一単位あたり2時間ぐらいでつきあげ、夕刻までかかったといいます。「もちつき唄」は、餅をつく前段のこねる作業の時に唄われていました。しかし、昭和30年を過ぎる頃から、農家の減少や農家の宅地化、商店からの餅の購入等の理由で、次第に行われなくなりました。その餅つきや「もちつき唄」が忘れられてしまうのを惜しんだ有志が集まり、昭和43年に「代々木もちつき唄保存会」を結成しました。毎年、代々木八幡宮において行われる節分会では、参詣者に餅が配られますが、その餅をついているのが「代々木もちつき唄保存会」です。(渋谷区教育委員会掲示より)

代々木八幡遺跡と石器時代住居

この遺跡は今から四千五百年程前の、石器時代中期を中心に栄えたもので、標高32、33mの幡ヶ谷丘陵の南方に突き出した半島の端に位置している。当時、この前の低地は海の退きはじめた沼のようなところで丘のうしろは一面、カシやナラの森で、そこにはシカやイノシシなどの動物が多く当時の人達はそれを採ったり木の果を拾って、見はらしの良いこの丘の上で永く住みついていた。
昭和25年渋谷区史を作るため発掘研究が行われたが、そのときには、地下30cm位のところから沢山の遺物が発見された。
土器は縄文式時中期の加曾利E式の鉢や壷が一番多く、その他わづかではあるが、前期の黒浜式や諸磯式、後期の堀ノ内式、加曾利B式なども出たから、前期にはじまり、中期に栄え後期までつづいたことがわかる。
石器としては石斧、石槌、石棒、石鏃、凹石、皮剥などが発見されている。
この発掘のとき、地下80cm位の下のローム層の上に当時の住居(竪穴家屋)の跡が一個分発見されたので、その上に当時のままの家を組み立てて作ったのが、この復元住居である。この家は直径約6mの円形にローム層を約20cm堀りくぼめ、その内がわの周に高さ1m60cmの柱を10本程立て、その柱の頭に桁を横に結びつけ、その桁に椽を21本周から葺き寄せて、屋上で円錐形に結び合せ、この上に萱を葺いて作ってある。屋上の南北には煙出しを作り東側には入り口をその東側の貯蔵室の跡にはここだけ椽を葺き出し中央部には爐の跡がそのまま残してある。貯蔵室に堀り埋めてあった大型土器と爐の中に置いてあった底なしの二個の土器は別に保存してある。この家の内は冬は屋外より十度温かく、夏は十度程涼しいし、内でたき火をすれば数時間で床面は乾いて案外住み心地が悪くない。使った木材は当時の附近の森相から考えてカシ、クリ等枯葉樹にした。(渋谷区教育委員会掲示より)

代々木八幡宮の周辺図