壽陽山臺雲寺|西方三十三所観音
臺雲寺の概要
曹洞宗寺院の臺雲寺は、壽陽山と号します。臺雲寺は、寛永7年(1630)麻布一本松に創建、僧台雲洞遠が臨済宗寺院として創建したといいます。曹洞宗の僧流繁林水が再興、伝正寺十二世鶴山宗亀を開山に請待したといいます。(現在活動していませんが)西方三十三所観音12番です。
山号 | 壽陽山 |
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院号 | - |
寺号 | 臺雲寺 |
住所 | 渋谷区恵比寿1-18-1 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
臺雲寺の縁起
臺雲寺は、寛永7年(1630)麻布一本松に創建、僧台雲洞遠が臨済宗寺院として創建したといいます。曹洞宗の僧流繁林水が再興、伝正寺十二世鶴山宗亀を開山に請待したといいます。
「渋谷区史」による臺雲寺の縁起
台雲寺(山下町六三番地)
曹洞宗、山号を寿陽山という。常陸真壁郡桜井村伝正寺末。寛永七年麻布一本松に起立。開山は臨済宗の僧台雲洞遠という。慶安元年法螺遠の死後、暫く無住になっていたのを、曹洞宗の僧流繁林水が再興し、これから曹洞宗になった。この時、伝正寺十二世鶴山宗亀を、開山に請待している。本尊釋迦如来。観音堂、稲荷社、鐘楼(梵鐘の銘元禄九年)があった。観音は、伝行基作。見返観音といわれて、古来有名である。明治二十三年、現在の場所に移った。(「渋谷区史」より)
臺雲寺所蔵の文化財
- 敵味方軍人の供養碑
- 軍馬の碑
- 歌川国宗の墓
敵味方軍人の供養碑/軍馬の碑/歌川国宗の墓
明治二十七・八年(一八九四・五)の日清戦争に従軍し、戦没した日本軍人の慰霊碑とともに、相手側の清国軍人の霊を弔った石碑が明治三十年にたてられていて、当時の人々の博愛思想を知ることができます。
また、この戦没に従軍して犠牲となった軍馬をあわれみ、
みいくさを のするのみかは かてをさへ はこぶ馬の ちからなりけり
という歌を刻んだ珍しい軍馬の碑もあります。
境内の墓地には、浮世絵師歌川国宗の墓があります。国宗は、本名をやました勇蔵といい、初代豊国の門下で、長文斎、杉嶺と号し、文政年間に錦絵や肉筆美人画を描いています。活躍した時期が短いことから、作品は極めて少ないといわれています。墓碑銘から安政四年(一八五七)六月五日に六十六歳にて病死し、法名は寶山得勇信士と刻まれています。(渋谷区教育委員会掲示より)
臺雲寺の周辺図