蓮光山妙円寺|安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰
妙円寺の概要
日蓮宗寺院の妙円寺は、蓮光山と号します。妙円寺は、圓成院日光(万治3年1660年寂)が寛永4年(1627)四谷千日谷(鮫河町)に草庵として創建したといいます。圓成院日光没後、住持もなく荒廃していたもののその後立正院日寛が再興、檀家百姓又兵衛より土地の寄進を受けて寶永3年(1706)隠田村へ移転したといいます。その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰を受けたといいます。
山号 | 蓮光山 |
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院号 | - |
寺号 | 妙円寺 |
住所 | 渋谷区神宮前3-8-9 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
妙円寺の縁起
妙円寺は、圓成院日光(万治3年1660年寂)が寛永4年(1627)四谷千日谷(鮫河町)に草庵として創建したといいます。圓成院日光没後、住持もなく荒廃していたもののその後立正院日寛が再興、檀家百姓又兵衛より土地の寄進を受けて寶永3年(1706)隠田村へ移転したといいます。その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰を受けたといいます。
新編武蔵風土記稿による妙円寺の縁起
(隠田村)妙圓寺
法華宗安房国小湊誕生寺末、蓮光山と號す、寛永四年四谷千日谷、今元鮫河町八軒町の内に草庵を営み、後年一寺とし、寛永三年當所の寄附地へ引移す、開山圓成院日光萬治三年五月十二日寂す、本尊三寶祖師を安す。
稲荷社。寛延元年正月勧請す。
毘沙門堂。(新編武蔵風土記稿より)
「渋谷区史」による妙円寺の縁起
妙圓寺(原宿一丁目六四番地)
日蓮宗、山号を蓮光山という。開山円成院日光(万治三年五月十六日寂)が寛永四年、四ツ谷千日谷、今の鮫河橋八軒町に草菴を営んだのが、はじめであり、やがてそれが寺となつたのが妙円寺である。その後荒廃して、住持するものもなかつたのを、立正院日寛が、小湊誕生寺二十六代日孝の依頼を受けて入寺し、整理する所あり、宝永三年穏田村の檀家百姓又兵衛の寄進地に移つた。即ち現在の場所である。故に日光を開山、日寛を中興開山としている。安房小湊誕生寺末。熊野神社の別当であつた。熊野神社も穏田村にあり。日光の勧請する所で、その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の再建にかかる。年代は詳でない。別当となつたのは、この頃であろう。前田氏は、本寺の造営にも力を添えたものと見えて、現存の寺門の瓦には、前田氏の梅鉢の家紋がある。本尊三宝祖師。境内八百三十五坪。毘沙門堂(伝伝教大師作)地蔵堂、稲荷社、鐘楼などがあつた。安政六年火災にかかり、寺門及び毘沙門堂の外、総て焼失した。維新の際神仏分離が行われて、熊野神社の別当をもやめたが、神社もまた間もなく、穂田神社と合祀せられた。その後寺運漸く傾き、明治三十六年頃には、毘沙門堂を仮本堂とする有様であつたが、昭和二年漸く本堂を再建し、毘沙門堂を門外に移したという。次いで庫裡もまた成つて旧観に復した。現在境内には、浄行菩薩の石像があり、宗祖六百五十年忌の時、住職本間日祟の建てた所。タワシで患部を摩すれば医すると称し、参詣者が多い。また境内には楓樹があり、東京府の保存木となつている。
寺宝に、浅野光晟の室前田氏が自写せる法華経八巻を蔵し、萬治二年二月の奥書がある。熊野神社に奉納したのを神仏分離の際、本寺の有に帰した。前田氏、名は満、利常の女、法名を自昌院英心日妙という、元禄十三年七月二十七日に歿した。
薬鑵平五郎の墓
本姓は藤田氏、町火消五番組、ふ組の頭取。仁侠を以て知られていた、「嘉永二年己酉年五月十九日妙心院得入日道居士」とあり、「挑灯の明りを借ててら迄は、てらから先は光るあたまで」と刻してある。
稲妻雷五郎の墓
雷五郎は常陸の人、江戸の力士。文政十一年大關、同十二年横綱となる。天保十年に廢業した、明治十五年三月廿九日歿。「稲妻雷五郎墓行年八十九歳。腕押しのならてや涼し雲の峯」と刻してある。山岡鐵舟の書する所。
この外丹波篠山の藩士で、後藤基次七代の孫といえる又大夫正信の墓がある。戦災で焼失、復興。(「渋谷区史」より)
妙円寺所蔵の文化財
- 穏原小学校旧跡
穏原小学校旧跡
この道路の向かい側に、かって穏原小学校がありました。
この学校は、妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、隠田・原宿両村の連合公立小学校として、明治十四年(1881)に、当時の原宿七十番地に開校したもので、当初の児童数は二十四名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同二十一年にこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
その後、校地が再び狭くなり、同三十三年に原宿百七十番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
この間、大正十一年には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和二十年五月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同二十一年三月、六十五年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。(渋谷区教育委員会掲示より)
妙円寺の周辺図