観谷山聖輪寺|御府内八十八ヶ所、東京三十三観音
聖輪寺の概要
真言宗豊山派寺院の聖輪寺は、観谷山福聚院と号します。聖輪寺の創建年代等は不詳ながら、神亀2年(725)行基菩薩の開基といい、宥光(明暦3年1657年寂)が中興開山したといいます。御府内八十八ヶ所霊場10番、東京三十三観音霊場13番です。
山号 | 観谷山 |
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院号 | 福聚院 |
寺号 | 聖輪寺 |
住所 | 渋谷区千駄ヶ谷1-13-11 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
聖輪寺の縁起
聖輪寺の創建年代等は不詳ながら、神亀2年(725)行基菩薩の開基といい、宥光(明暦3年1657年寂)が中興開山したといいます。
「渋谷区史」による聖輪寺の縁起
聖輪寺(千駄ヶ谷二丁目三六〇番地)
新義真言宗、観谷山福聚院という、寳永七年三月吉日在銘の鰐口の銘に観谷山聖輪寺壽福院現住第三法印宥度」とあり、寿福院とも称したことがあつた。大和長谷寺末。起立は詳でない。文政の書上に、「古来より当地有之候得共、年數不分明」と見えている。開山を宥光(明暦三年正月二十八日寂)という。江戸時代初期の起立であつた。本尊如意輪観音、古来千駄谷観音と呼ばれて、特に名高く、「続江戸砂子」には、近世三十三観音の第二十番に数えている。伝行基菩薩の作。或時賊が、その双眼は、黄金であると聞伝え、鑿で取去らうとした時、冥罰に当り、その場で自ら傷いて死んだと伝えられ、これから眼玉の観音ともいわれ、また寺門の朱塗であるから、寺を赤門の寺と称し、観音を赤観音とも呼ぶようになつた。世俗では、眼玉の観音として知られている。境内九百七十九坪。諏訪明神、秋葉権現、稲荷明神の社、大師堂、鐘楼(梵鐘の銘は寛文三年)なとがあつた。稲荷は、庄九郎稲荷ともいわれ、往古は村の鎮守であつたといわれる。また大師堂は府内八十八ヵ所の第十番に当り、古来参詣するものが多かつた。
本寺は、維新後久しく荒廃していたが、明治三十年頃漸く復興した。減じ阿境内には、延寳元禄の銘のある庚申塔三基と、大仏堂との外、旧観を存するものがなく、近来新らたに、青山練兵場の旧地にあつたという稲荷の小祠が建てられ、消防士から信仰せられて来た。(今次事変に焼失、復興)
墓碑
増譽法印の墓
増譽、俗姓は真田氏、甲州流の兵學を修めて、生徒に教授し、就いて学ぶものが多かつた。「明良洪範」の著書。墓は正面に 当山第三世 法印増譽
とあり、左側に、寳永四丁亥 七月二日
右側に、 甲陽古傳軍術 至光明院七傳 同流十一傳燈 山本氏同人立
と刻してある。但上文に記した寳永七年在銘の鰐口には、「現住第三世法印宥度」とある。増譽の墓碑にも、第三世と刻し、いづれかに誤があらうと思われるけれども、まだ明証を得ない。(「渋谷区史」より)
聖輪寺の周辺図