大崎山寿昌寺|伊達政宗夫人の帰依
寿昌寺の概要
臨済宗系単立寺院の寿昌寺は、大崎山と号します。寿昌寺は、正保2年(1645)頃大慈円満国師が深川新田島に開創、のち伊達政宗夫人の帰依を受け、当地へ移転しました。
山号 | 大崎山 |
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院号 | - |
寺号 | 寿昌寺 |
住所 | 品川区東五反田3-8-11 |
本尊 | 十一面観世音菩薩 |
宗派 | 臨済宗系単立 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
寿昌寺の縁起
寿昌寺は、正保2年(1645)頃大慈円満国師が深川新田島に開創、のち伊達政宗夫人(法名陽徳院栄庵寿昌)の帰依を受け、上大崎村袖ヶ崎の弁財天社の除地を譲り受けて、当地へ移転しました。
「品川区の文化財」による寿昌寺の縁起
大慈円満国師が深川新田島に開創した寺を正保2年(1645)に国師が伊達政宗の夫人の帰依を受け、その庇護によって上大崎村袖ヶ崎の現在の場所にあった弁財天社の除地を譲り受け、夫人が堂塔を寄進してこの地に移したものである。寺名も夫人の法号をとったものである。(「品川区の文化財」より)
新編武蔵風土記稿による寿昌寺の縁起
(下大崎村)壽昌寺
除地一段九畝二十五歩、見捨地一段九畝、年貢地二段三畝七歩、村の東方にあり、禅宗臨済派京都妙心寺末大崎山と號す、大悲圓満國師深川新田嶋に起立す、(舊地詳ならず)、正保二年當所太田道灌勧請せし辨財天社の除地八畝二十二歩の敷地を國師譲受、又年貢地若干を添地として寺を爰に移せり、開基は松平陸奥守政宗の室陽徳院榮庵壽昌尼なり、此人國師に歸依して堂宇以下を造營し、法名を以て寺號とす、承應二年正月二十四日卒す、國師は萬治二年八月八日示寂、中興開山嘘靈空明禅師貞享元年十月十五日寂す、其後元禄八年織田越前守信久検地の時彼添地をも除地となせり、客殿八間に五間本尊華嚴釋迦脇立文殊普賢共に坐像長六寸五分、
寺寶開山圓満國師木像一軀
開基壽昌尼肖像一幅
羅漢畫一幅。兆殿司筆
涅槃像一幅。藤原安乗の筆
鐘楼。門を入左にあり。元は六時を報せしが今は廃す。銘文左の如し。
武蔵州荏原郡大崎山壽昌禅寺、故黄門伊達政宗卿之室陽徳院殿栄奄壽昌大姉挿草之地、而大悲円満国師唱道之梵宮地、鬱彼南隣我大檀郵従四位上行左近衛中将兼陸奥守(退隠後称左兵衛督、)藤原朝臣吉村公爰開袖崎之別荘、以偽養浩之地、今玆寛保三年葵亥秋八月二日騭棲于玆、公俛仰山水之日顧問左右曰、此虚無報時之鐘歟、侍臣対日是地也宅幽而阻遠、是故難聞應天寶数
之鐘、是以農進夜退莫可稽憑、庶為鐘以宜教令、於是命執事告鳬為華鐘、公之賢夫人貞子及淑女等聞其言而随喜之、偕戮力同志其功烈豈易量乎、予謂無有一佛不以音草声而化群品、無有一機不従耳根聞教解悟、由是観之鐘也者法器之最勝也、其功烈豈易量哉、不日而鐘成、以懸大崎峯之殿前、時々打撃而警更點、因予諭之為之銘、銘日、於戯令音、令音普聞、遠近交喜、書夜
平分、華鯨吼月、蒼龍吟雲、僧驚神仏、士厳等君、声迎初日、響留余曛、祥風時至、隹気自薫、鴻思如答、群類如忻、獣萬歳壽、永千秋曛、寛保三年九月良辰、現住寂奄瑞旭識.執事佐伯豊前藤原永続、営造秋保甚助平主盛、冶工神田住小幡内匠藤原勝行、 右所係旧鐘銘也、以垂後鑑、大崎山壽昌禅寺三鋳華鐘之記、夫鐘也者不朽之法器、而三鋳之者何乎、盖冶工之不精而打撃亦過度乎寛保三年癸亥之秋、始鋳鐘未幾鐘破矣、延享二年乙丑之夏再鋳之、是威故陸奥守羽林中郎将藤原吉村公隠栖於袖崎之日下命令所鋳也、今玆賓歴十年庚辰之夏亦殆生罅、鳴之則如銅鉦聞者憂之、今陸奥守羽林次将藤原重村公、不空祖君之意、命有司
三改鋳之、妙音新發聞者喜之、令余記其等、至鳴六時鐘之顛末、則旧鐘之銘載在上件寂庵師祖之所勒歴々矣、照々矣、余言曷贅焉、宝麿十年庚辰秋九月穀旦、現任萬崖陶愚謹誌、執事青木内蔵介源頼存、営造森長太夫藤原元宜、冶工沖田住西村藤原政持、
鐘樓。門を入左にあり、元は六時を報ぜしが今は廢す、銘文左の如し、(銘文省略)
觀音堂。門を入右にあり、三間四方正観音を安ず長二尺八寸、縁起に據に天竺僧曇無織三蔵諸名香をもて作れる塑像にて、西土楊州大明寺に安ぜり、鑑真和尚歸化の日携来り夫より遥の星霜を經て鐡舟道者に傳はり、南都の草庵に安ぜしに、道者當寺中興空明禅師と所縁あるを以江都に来り、師資の約をなし延寶三年四月十五日寂するの後遺言に任せ此堂を造立して彼像を安置すといへり、
辨天社。門を入て左にあり、方九尺前に云太田道灌の勧請せしは是なり、神體木像長七寸五分、
稲荷社。西南の方にあり小社下同、
天神社。西北の方にあり、(新編武蔵風土記稿より)
寿昌寺の周辺図