普海山心海寺|本田忠峯が創建
心海寺の概要
真宗大谷派寺院の心海寺は、普海山と号します。心海寺は、徳川家康に仕えていた本田忠峯(法名峯山)が、小田原の役で負傷したため仏門に帰依、正保4年(1647)に創建したといいます。
山号 | 普海山 |
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院号 | - |
寺号 | 心海寺 |
住所 | 品川区南品川2-9-5 |
本尊 | 木像阿弥陀如来立像 |
宗派 | 真宗大谷派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
心海寺の縁起
心海寺は、徳川家康に仕えていた本田忠峯(法名峯山)が、小田原の役で負傷したため仏門に帰依、正保4年(1647)に創建したといいます。
新編武蔵風土記稿による心海寺の縁起
(南品川宿)心海寺
年貢地一段三畝十八歩、願行寺の東に隣れり、普海山と號す、浄土真宗東本願寺末、開山峯山正保四年起立す、忌日は四月五日年歴を失ふ、本尊弥陀立像長二尺二寸餘客殿八間に七間門は北向柱間七尺。
鐘楼。門を入て左にあり、寶暦四年鋳成の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)
品川区の文化財による心海寺の縁起
本田忠峯は永禄9年家康に仕え、三河国佐々木を領し、天正15年泉州堺を領した。同18年小田原合戦に手疵を受け、これにより深く仏門に帰依し、峯山と称した。
品川の海辺に草庵を営み、慶長5年(1600)家康が上野小山に在陣の時、本願寺12世教如上人が陣営に見舞いとして下向の折、峯山の草庵に立寄り、その化導によって法弟となり峯山と改めた。心海寺の名も教如上人の名付けたものと云われている。(品川区の文化財より)
心海寺にある品川区指定文化財
- 木像阿弥陀如来立像
- 心海寺文書
木像阿弥陀如来立像
当寺の本尊で、像の高さ97.4cmの寄木造の像である。
来迎印を結び、顔立ちは大変やさしい表情に作られている。体もほどよい肉付きで、衣の文様も自然な皺で質感を巧みに表しており、典型的な鎌倉様式を示している。
寺伝によると、この像は京都で制作され、当寺に運ばれたもので、鎌倉期に制作されたものとして大変貴重である。(品川区教育委員会)
心海寺文書
当寺が所蔵する文書は、江戸時代の中期から明治時代に至る多数の文書である。これらの文書は、この寺と周辺の寺院の関係や地域の歴史を語るとともに、浄土真宗の宗門研究にとって大変貴重な史料である。(品川区教育委員会)
心海寺の周辺図