天妙国寺|品川区南品川にある顕本法華宗寺院

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鳳凰山天妙国寺|中老僧天目上人が開創、もと京妙満寺末触頭、別格山

天妙国寺の概要

顕本法華宗の天妙国寺は、鳳凰山と号し、顕本法華宗の別格山です。天妙国寺は、日蓮上人の弟子の中老僧美濃阿闍梨天目上人が弘安8年(1285)に開創しました。文安元年(1444)には沙弥道胤・鈴木光樹が大檀那となり五重塔を含む七堂伽藍を建立、歴代領主より制札を与えられ、徳川家康の関東入国に際しては翌年(1591年)に寺領10石の朱印を受領、表門には、駿河大納言忠長卿舊邸の御成門を譲り受けた赤門で著名でした(後年焼失)。江戸期には、京都妙満寺末寺院の江戸における觸頭を勤め、現在は顕本法華宗の別格山です。

天妙国寺
天妙国寺の概要
山号 鳳凰山
院号 -
寺号 天妙国寺
住所 品川区南品川2-8-23
本尊 釈迦如来
宗派 顕本法華宗
葬儀・墓地 天妙国寺会館
備考 顕本法華宗別格山



天妙国寺の縁起

天妙国寺は、日蓮上人の弟子の中老僧美濃阿闍梨天目上人が弘安8年(1285)に開創しました。文安元年(1444)には沙弥道胤・鈴木光樹が大檀那となり五重塔を含む七堂伽藍を建立、歴代領主より制札を与えられ、徳川家康の関東入国に際しては翌年(1591年)に寺領10石の朱印を受領、表門には、駿河大納言忠長卿舊邸の御成門を譲り受けた赤門で著名でした(後年焼失)。江戸期には、京都妙満寺末寺院の江戸における觸頭を勤め、現在は顕本法華宗の別格山です。

「品川区の文化財」による天妙国寺の縁起

弘安8年日蓮の弟子中老僧天目が開いた寺である。延元2年4月26日寂す。
永享6年5月品川八郎三郎国友は当寺に帰依し、その領内南品川の辺りの芝原若干を寄附した。同8年4月に、前上総介定景は両親の菩提の為、畠地を寄附する。同10年7月、同11年11月の二度に憲泰も寺地を寄附した。ここで寺領も広くなり、法燈も益々盛んとなった。これは僧日叡の在住の頃である。文安元年になり領主沙弥道胤、鈴木光樹の両人が大檀那となって七堂伽藍の建立を企て、17年を経て長禄3年に落成した。為に日叡を中興開山と称する。文安3年の古鏡銘に、大檀那沙弥道胤と刻され、宝徳2年の文書にも品川の住人道胤と記してある。此後永正14年10月弾正正忠寺に制札を建て、同19年10月左京亮元景畠三段を寄附する。大永4年北条氏綱高輪原合戦の時に制札を出して軍兵の狼藉を戒め、その後天文永禄の数回にわたって北条氏より制札文書を賜った。天正19年東照宮より寺領10石の朱印を賜り、後家光の鷹狩りの時しばしば御立寄りになり、寛永11年11月五重塔修造を命じられ、又新たに本尊及仁王門大門、石垣、石燈籠、小書院等を造立させたと云われる。(「品川区の文化財」より)

新編武蔵風土記稿による天妙国寺の縁起

(南品川宿下)
妙國寺
拝領地二萬二千百七十七坪、長徳寺の南隣なり、鳳凰山と號す、法華宗京都妙満寺末江戸觸頭三ヶ寺の一なり、日蓮弟子中老僧天目弘安八年草創す、目は美濃阿闍梨と稱し、又上法房とも云、俗姓は三浦氏相州鎌倉の人なり、日蓮滅後圓極實義抄を著し、初て本迹勝劣の義を論ず、後に常陸國小勝に長久山本門寺を創て居、延元二年四月二十六日寂す、年八十一、此餘新に精舎を建しは鎌倉妙圓寺佐野妙顯寺等なり、遥の後永享六年五月當所の人品川八郎三郎國友當寺に歸依し、其領内南品川の邊芝原若干を寄附、同八年四月前上總介定め景亦隻親菩提の爲畠地を寄附、同十年七月同十一年十一月の二度に某氏憲泰も寺地を寄す、ここに於て寺領も頗廣く法燈彌盛なり、是僧日叡當寺に住せし頃なりと云、文安元年に至て領主紀州熊野人の後胤沙彌道胤及鈴木光純と云もの大檀那となり、七堂伽藍を剏立せん事を企、十七年を歴て長禄三年に落成す、故に日叡を中興開山と稱す、此僧は文明八年四月十四日寂す、今按ずるに文安三年の古鐘銘に、大檀那沙彌道胤と彫り、寶徳二年の文書に品川の住民道胤と記す、又諏訪社の傳記に、當時檀那鈴木高純道印と載せ、文明八年の文書に鈴木入道と見ゆ、見聞集品川の翁の語を載て、昔鈴木道印と云有徳なる人あり、幸順と云息有て父子連歌の道を好み、心敬僧都と交深き由を載又道印父子七堂伽藍を建立し福徳の驗見えたりなど記せり、是當寺の事なるべし、據て考ふるに道印は則道胤なり、光純高純幸順其實は一人にて、道順光純全く父子二人なり、僧萬里【梅花無盡蔵】に、當所境内五重塔を咏せし詩あり、其の詩後に載す、此後永正十四年十月弾正忠某寺中に軍勢濫妨狼藉の制札を建、同十六年十月左京亮元景畠三段を永く寄附し大永四年北條氏綱高輪原合戦の時、制札を出して軍兵狼藉を戒め、其後天文永禄の頃數度北條氏等より制札文書を賜ふ、天正中年代記に永禄元年四月二日左馬頭義氏鎌倉八幡宮へ参詣ありし時、品川妙黒寺に逗留ありしと載、黒國通用せしなるべし、御當代に至りても天正十九年十一月南品川の内にて寺領十石の御朱印を賜り、後大猷院殿御放鷹の時、しばしば御立寄あり、寛永十一年十一月五重塔修造を命ぜられ、又新に本尊及二王門大門石垣石塔籠小書院等を造立せられしと云、客殿七間に六間東向本尊宗風の諸尊をおけり、
寺寶
東照宮御朱印一通
寄進妙國寺 武蔵國荏原郡品川之内拾石之事右令寄附訖、殊寺中可爲不入者也、仍如件、
天正十九年辛卯十一月日 御朱印
古文書二十七通(文面省略)
兩龍扇一握。小川僧正の筆、波に雲龍の畫なり、日蓮當寺にありし時、主僧天目の乞に因て畫賛を題し與へしものなり、其文左の如し、(文面省略)
主題一幅。加藤清正の筆にて手判を押す其圖左の如し
境内古圖一舗。寛永年中の圖なり、大さ六尺四方許、度々上覧を經しものとて什物に充置、其頃の地形見るべし其圖左に出す、
表門。兩柱の間九尺東向、鳳凰山の三字を扁す、赤井得水書、此門は駿河大納言忠長卿舊邸御成門を賜て建と云、【江戸雀】に品川旅籠屋を二町程往て右の方に、忠長卿の御館表御門の跡見ゆと是なり、彼君罪蒙給ひ寛永八年五月甲斐國へ遷さると云、後此門回禄に罹り今は冠木門を建つ、
仁王門。表門の内にあり、五間に三間、仁王は運慶作傍に供所あり、
鐘樓。客殿と山門との間にあり、鐘徑三尺銘文あり、(銘文省略)
五重塔蹟。客殿の西北にあり、高十三間横方一丈六尺、上一重銅瓦、下四重は土瓦なりしと云、今は礎はかり存せり、中興二世日迂の時功を興し、三世日教繼て造畢す、是皆文明中の人なり、僧萬里が【梅花無盡蔵】に詩あり、題下自注云、同日(文明十七年十二月二日なり)隔五十町有江戸城、多法華宗、其詩云、雙塔五重兼一層、間宗旨法華僧、蓮經二十八差別、子細看来満口氷、此五重塔は則是塔なり、又羅山集此塔の作あり、最澄妙法眼猶青、末派相分迷入宜、只尋紙上閉言語、不轉心中如是經、雙塔高低仍飾粧、多寶釋迦同座床、草木有情皆作々、一層如鶴一層蓋、此塔慶長十九年八月二十八日大風の爲に顛崩せしかば、大猷院殿御遊歴の時御覧ありて、寛永十一年十一月八日松平伊豆守信綱佐久間将監眞勝命を蒙り、伊奈半十郎忠常奉行として御再建ありしと云、(新編武蔵風土記稿より)


天妙国寺所蔵の文化財

  • 桃中軒雲右衛門の墓(品川区指定史跡)
  • 日什筆曼荼羅
  • 日蓮消息文[上野女房御返事]
  • 日什諷誦文及び置文写
  • 天妙国寺五重塔礎石(品川区指定文化財)

桃中軒雲右衛門の墓

当寺の典籍は、文書6点を含む17点で、享保年中から明治に至る間(1720-1885)に作成された写本、稿本(手書きした本)類である。
いずれも顕本法華宗の教義・門流・先師に関するもので、特に典籍の「宮谷檀林林玄能歴代本山法主記」のように、現在では孤本となっているものもある。また、文書の中には、創建(弘安8年=1285)以来から品川地域では大寺であった同宗の天妙国寺に関する史料が含まれているのも興味深い。
これらは、顕本法華宗の宗門研究にとって大変貴重な史料である。

日什筆曼荼羅(指定昭和58年3月12日)

縦38、横15.4cm、紙本墨書、軸仕立である。中央に南無妙法蓮華経の7字を大書し、その左右および下に、多宝・釈迦・四菩薩・日蓮など多数の諸尊名が梵字の種子で書かれている。中央下には日什(花押)の署名と年記及び受者名が記してある。
この曼荼羅は至徳2年(1384)顕本法華宗の開祖日什が玄恵坊に授けたもので、軸裏に慶長14年(1609)日経が日什の真筆であると証明している。

日蓮消息文[上野女房御返事](指定昭和58年3月12日)

縦30.3、横39.2cm、紙本墨書、軸仕立てである。
この文書は、日蓮が上野(山梨県中巨麗郡櫛形町)に住んでいた南条時光の夫人が、署名花押は晩年の建治・弘安(1277-80)頃の他の真筆に類似している。墨色はかなり薄れているが、真筆を疑う余地はないようである。

日什諷誦文及び置文写(指定昭和58年3月12日)

天地35.9、長さ260cm、紙本墨書、巻子仕立である。
諷誦文は死者追悼の法会に、その意趣を記して読み上げる文、置文は自己の意思を後の人に伝えるために書いた文である。
この諷誦文は、嘉慶2年(1388)8月、顕本法華宗の祖日什が弟子日妙の一周忌法要に読み上げたもので、著作の残っていない日什の教説を知り得る唯一の資料として貴重である。また置文は、日什が弟子たちに示した心得2ヶ条から成る。
奥書によれば、寛永14年(1637)日葉が京都の寂光寺所蔵の日什の自筆本を写したものとなっている。
天妙国寺は顕本法華宗に属する大寺で、弘安8年(1285)日蓮の直弟子天目上人が開いた寺である。

日什諷誦文及び置文写(指定昭和58年3月12日)

天妙国寺五重塔は十五世紀中頃に建立されました。その後、慶長十九年(一六一四)秋に大風のために倒壊。寛永年間に修復されたのですが、元禄十五年(一七〇二)の四谷塩町より出火した大火によって焼失したと伝えられています。
五重塔には、一本の心柱(塔の中心の柱)と十六本の柱があり、それぞれの柱には礎石と呼ばれる大きな石の上に建てられます特に心柱を受ける礎石を心礎といいます。中央にくぼみのある石が当時の五重塔の柱の礎石です。三個のうち中央の花崗岩製の礎石が心礎と考えられます。
なお、この礎石は後世に移されていて、五重塔のあった正確な場所は不明です。(品川区教育委員会掲示より)

天妙国寺の周辺図