養玉院如来寺|品川区西大井にある天台宗寺院

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養玉院如来寺|荏原七福神の布袋尊、荏原七福神の布袋尊

養玉院如来寺の概要

天台宗寺院の養玉院如来寺は、帰命山養玉院如来寺と号します。明治41年に芝高輪より当地へ移転していた帰命山佛性院如来寺と、下谷坂本にあった金光山大覚寺養玉院とが、大正15年に合併して帰命山養玉院如来寺となりました。養玉院如来寺は、荏原七福神の布袋尊となっています。

養玉院如来寺
養玉院如来寺の概要
山号 帰命山
院号 養玉院
寺号 如来寺
住所 品川区西大井5-22-25
宗派 天台宗
葬儀・墓地 新規墓地受付中
備考 荏原七福神の布袋尊



養玉院如来寺の縁起

養玉院如来寺は、明治41年に芝高輪より当地へ移転していた帰命山佛性院如来寺と、下谷坂本にあった金光山大覚寺養玉院とが、大正15年に合併して帰命山養玉院如来寺となりました。

養玉院の縁起

養玉院は、三明院(三藐院)として寛永寺屏風坂御門内に創建されました。慈眼大師が開山、南光坊弟子の賢海(日野大納言資勝卿之四男)が初代となっています。寛永寺の創建に伴い、下谷坂本に移転しています。対馬藩宗家の江戸菩提寺兼江戸宿寺となり、宗対馬守義成室養玉院より院号を養玉院と改称しました。大正15年に西大井に移転していた如来寺と合併しました。

東叡山末下谷坂本 金光山大覚寺養玉院 境内古跡拝領地1103坪2合7勺外御預り地243三坪1合7勺
当院起立之儀は、寛永年中慈眼大師東叡山御開聞之砌、公儀江被仰立候処、御奉行久貝因幡守殿・曽我丹波守殿江被 仰付、東叡山屏風坂御門内ニおゐて寺地拝領寺院御建立被成下候。其節寺号三明院と相唱申候。
元禄11戊寅年9月22日、寺院御用地二被召上、同年11月22日、只今之地江代地被下置、元坪数之通拝領地二被仰付候。尤元寺院之外二有之候。借添地是又御用地二被 召上、境内江一緒二代地被下置御預り地二被仰付候旨、松平志摩守殿被仰渡候。但三明院を養玉院ト改号仕候儀は、大檀家宗対馬守殿、厚由緒有之当寺を以、上野宿坊且菩提所ト被相定候二付、寛文年中二至り右之由緒後代退転無之ため、宗家先祖養玉院之法号を寺号二仕度段
御門主御方江奉願候処、
公儀江御届之上願之通改号被仰付候。尤只今以宗家上野宿坊当院二両相兼罷在候。
開山慈眼大師
当寺初代賢海は慈眼大師弟子。俗姓日野大納言資勝卿之四男二御座候。
当寺二代念海は賢海弟子。俗姓高倉大納言殿三男二御座候。
本堂内陣土蔵造横5間竪3間 本尊釈迦如来木座像丈4尺1寸台高サ5尺8寸後背高1丈1尺3寸 脇立迦葉阿難木立像各丈5尺六寸台座高サ3尺
右本尊釈迦迦葉阿難之三像之儀、当寺檀家小関太郎次郎ト申もの、先祖は禅宗二而本所牛嶋弘福寺檀家二有之。右本尊肥前国長崎ニおゐて唐人二彫刻為致候而弘福寺江寄附仕候由。然ル処其後弘福寺住持不帰依之由二而離檀改宗之上、当寺担家二相成候。
依之右本尊取戻し当寺江相納候由申伝二候。本尊右之後腰之辺二朱漆二而銘有之如左。
延宝五丁巳春沙門兆渓於肥州長崎使明苑印官徒范
宗仁刻及冬竣工
武州葛西郡須崎村牛頭山
後光之中心円鏡之裏二鋳銘有之如左
武州葛西郡須崎村願主
弘福兆渓
伊藤佐兵衛尉作
慈眼大師、木座像当院初代賢海作丈2尺1寸
慈恵大師 木座像ニ童子附
伝教大師木座像 木座像
当寺初代賢海 木座像弟子念海彫刻仕候
当寺2世年海 弟子玄悦坊快雲ト申者仏師長五郎ニ令刻之
本尊寄附小関夫婦之木像
涅槃画像 横8尺4寸竪1丈2尺
長谷川等言筆
天海大僧正讃有之
讃云。世尊於涅槃会上 以手摩胸告衆言 若語吾滅度非吾 弟子若謂吾不滅 度亦非吾弟子時 百万億衆悉皆契 悟之矣 一心観仏 三国伝灯大僧正天海書
二王尊木像。右は東叡山仁王門御建立之節、雛形彫刻有之候。二王尊之由申伝候。古来当寺二安置。
稲荷社。9尺四方。神体陀枳尼天木像。右ハ政経稲荷と唱申候。古来安置有之。最初勧請之年月等相知不申候。
護摩堂本尊不動。木立像慈覚大師作、丈2尺4寸二童子附。右は護摩堂二安置之処、大破二相成候二付取崩候間本堂江安置ス。
石宝筐印塔、惣高サ1丈6尺2寸余。造立之年月相知不申候。
以上丙成書上
○下谷養玉院と云。天台宗の寺ハ本ハ大手の向に有。三藐院と云。宝永年中に養玉院と号す。二月八日涅槃像を見せる。大幅にて南光坊の讃あり(南向茶話)
○事蹟合考云、下谷の坂本一町目へ江戸の方より至る処に養玉院といへる天台宗の寺あり。宝永の頃迄ハ三藐院と申たり。此寺もつとも東叡山末寺にして塔頭の列たりといふ。天海僧正いまた寛永寺を開かれす。御城内大手の今の酒井雅楽頭邸の地を寺に賜ハりし。その以前より武農工商等の檀那を持て滅罪を執行ひて居られし所、天台一宗の法灯をなされ、東叡山の起立を命せられLより、かの檀那を此三藐院に渡し、墓石等も悉く其侭にさし置、自らハ東叡山本坊にうつられたり。惣ての檀那其むかしよりのなしミゆへ、常に僧正の許に参り、法事なとのある時ハ勝手をも取持なとしたり。是に依てかの三藐院の檀那銀子一枚ツツを包ミ、毎年盆中一度本坊に参詣し、御門主を拝し非時を姶ハり、法会を聴聞し帰れるなり。今に至て御門主かの寺檀那のよしミを以て御覧あるとなり。至て厳重の御事なる事ありかたき古風なり。されハかの三藐院の檀那の子孫乏少に及ひ、参詣も叶ひかたき時ハ同家の他人に譲るなり。その譲りをうくるものかの乏少になりたる者に銀子壱枚を報謝としてつかハすとなり。是ハ本坊に往
古の檀那の名苗字人数等高ともに記して有。新に檀那となることハ決て禁制故かくのことし。下民として御門主を拝する事ありかたき御事故、心有天台宗のものハ其譲りあるをこひねかふことなり。又云今その三藐院を改号して養玉院といふ以前におゐて毎年二月八日涅槃像の大幅をかくる。天海僧正の自筆にて讃有。江戸天台一宗の寺院にハもっとも無双の曼荼羅なり。今按るに此三藐院といへるハ、則江戸古図にも見へたり。其図によれハ今の愛宕の下辺にありし寺なりとおもはる。又宝永年坤に養玉院とあらためしと云ハうけかひかたし。寛文十三年の江戸図をミるに、養玉院といへる寺、此所に有よしをのす。是に拠れハもし寛永の誤写にや。寛永の頃ならんにハ世も又隔りぬれハさもありしや知らす。一説に、養玉院ハもと桔梗御門の外に有りて、山明院といひし寺なりと。是ハ三藐院の伝誤りにや。或書に養玉院ハもと上野山内の寺院なり今の新町内明地になりし所なり自火にて御霊屋向か御焼失の事によりて構外坂本に移さるといへり(改撰江戸志)
○坂本養玉院の事、予か知る人文山なる者養玉院に至り、院主の直談に聞しを爰に記す。是迄古く云伝へ世に行はるゝ処の坂本の説とハ相違せり。当寺もと三明院・天覚寺といふ廓内きゝやう御門外辺にあり。南光坊弟子念海和尚を開山とす。其後今の坂本の地へ移し、対州奥方養玉院殿此寺に納るによって寺号を改る由。三藐院といふ説大手桜田等の事相違あり(江戸図説)
○当寺地拝領の時の書物に、上野村に於て替地を下さるとあり。当寺初代賢海は、宗対馬守義成室養玉院と兄弟なりし由緒を以て当寺を菩提所と定たりと云。
○元御城近辺に三明院といふ寺ありしを、寛永中其寺号のみを引て建立せしなれハ、起立は全く寛永年中なり。起立のはしめハ涅槃寺と号せり。中古江州坂本大学寺を兼帯せし時改しと云。
○及意上人は、後陽成院の御帰依僧にて慈眼大師其法脈を相続せしめんため当寺を起立す。及意上人は元和五年卒す。
○慈眼大師の檀中御門主を拝する事ハ、毎年六月四日・十月二日・十一月廿四日の三度法会ある時なり。是ハ当寺御預り慈眼大師檀中と唱へ、俗には大師構中なと唱ふ。元ハ七十人余ありしか、今ハ四十余人なり。皆京都より大師へ付添来りしもの共なり。此檀中乏少なれハ他人へゆつるよし事蹟合考に記したるハ誤りなり。関る時ハ其侭減して他人へ譲る事ハなきとなり。
○改撰江戸志に注記する或書の説は非なり。当寺ハ中堂の東松原の辺にて中堂御建立の頃移れり。古書物に屏風坂御門内とあり。今下寺の辺、其頃当寺の持地也と云。承応二年の枯券あり。
○上野二王雛形当寺に納しかハ、彼二王を彫刻せし仏師長五郎なる者当寺の檀家なれハ是等の由緒にて納しならんと云。
○政経稲荷、一名六角稲荷と云。六角家より寄附せし故なり(以上捜索)
○寛永六年起立なるよし古書に見ユ。(御府内寺社備考より)

如来寺の縁起

如来寺は、寛永年間(1624-1644)に木喰但唱が芝高輪に創建、大和高取藩主植村家の菩提寺となっていました。明治41年に当地へ移転しています。



養玉院如来寺所蔵の文化財

  • 木造釈迦如来及び両脇侍像
  • 木造阿弥陀如来立像
  • 木造天海僧正坐像
  • 絹本着色阿弥陀三尊来迎図
  • 木造五智如来坐像(五体)
  • 木造念海和尚像
  • 石造線刻地蔵菩薩坐像

木造釈迦如来及び両脇侍像

中尊の釈迦如来は、像の高さ133cmの坐像である。脇侍は、向かって右が老年の迦葉尊者で、像の高さ168.5cm、左が壮年の阿難尊者で、像の高さ171cmのいずれも立像である。
三尊のそれそれの背に朱の漆書きがあり、三尊とも延宝5年(1677)に、沙門兆渓が明国の范宗仁に長崎で彫らせたものであることがわかる。元は、江戸洲崎村(現墨田区東向島)の黄檗宗弘福寺(後天台宗に改宗)にあったが、当院に移したといわれている。(品川区教育委員会掲示より)

木造阿弥陀如来立像

対馬藩主宗家に伝わった像といわれ、新阿弥陀堂の本尊として安置されている。
像の高さ91.5cmの寄木造りで、平安時代の末期から鎌倉時代の初期(1150-1200頃)に制作された古い像である。(品川区教育委員会掲示より)

木造天海僧正坐像

老人の姿で椅子に坐った像の高さ90cmの寄木造りの像である。像の内部の墨書によると、寛永21年(1644)に大仏師慶雄が制作したことがわかる。(品川区教育委員会掲示より)

絹本着色阿弥陀三尊来迎図

阿弥陀如来が、脇侍の観音・地蔵菩薩とともに、臨終の信者を極楽浄土へ迎える図で、軸に仕立てられており、室町時代(1333-1573)の作と推定される。
阿弥陀三尊の脇侍は、一般的には観音及び勢至菩薩であるが、本図は、地蔵菩薩が描かれている珍しい図である。(品川区教育委員会掲示より)

木造五智如来坐像(五体)

五智如来堂(瑞應殿)内に、向かって右から薬師如来、宝生(勝)如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来の五体が妥置されている。いずれも像高3mにも及び、「大井の大仏」と呼ばれている。
五像は、木食但唱が弟子と共に信濃国で造立し、寛永13年(1636)年江戸芝高輪に如来寺を建てて妥置した。如来寺は、明治三十年代に、大井村(現在地)に移り、大正十五年養玉院と合併したが、五智如来は、如来寺伝来のものである。
薬師如来以外は、火災で諸堂と伴に焼失し、宝暦年間(1751-1764)に再建されたが、壮観を姿は江戸庶民の信仰と結びつき、由緒ある如来像は貴重である。(品川区教育委員会掲示より)

木造念海和尚像

養玉院二代念海和尚の肖像彫刻で、高さ50.5cmの像である。探題帽(白羽二重の帽子)を被り、法衣上に丈棟を描いた袈裟を付け、横帔(右肩から左脇に付ける長方形の布)をまとい、合掌した形に造られている。小柄な像であるがいきいきとした顔立ちをしている。
像底部の漆書きから制作年代は寛文11年(1671)、制作者は仏師の長五郎であることがわかる。(品川区教育委員会掲示より)

石造線刻地蔵菩薩坐像

高さ267cm、巾85cmの安山岩の表面に、結跏趺坐(座禅の形)する地蔵菩薩坐像が線刻されている。像の高さは、119.5cmで、体の立体感を巧みに表現し、衣の文様も簡潔な線でふくらみをよくだしている。また、裾の部分は二重線でふちどり、独特な装飾性を見せている。
本像の蓮華座の下の銘から、慶安4年(1651)に念仏講衆25人によって制作されたものであることがわかる。(品川区教育委員会掲示より)

養玉院如来寺の周辺図