赤城神社|赤城山麓大胡の豪族大胡氏が元赤城神社地に創建、旧郷社
赤城神社の概要
赤城神社は、新宿区赤城元町にある神社です。赤城神社は、赤城山麓大胡の豪族大胡氏が上野国赤城神社の分霊を勧請して早稲田鶴巻町(元赤城神社地)に正安2年(1300)創建、大田道灌持資が牛込毫へ遷座寛正元年(1461)牛込へ遷座、牛込郷の総鎮守であったとといいます。明治維新後、郷社に列格していました。
社号 | 赤城神社 |
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祭神 | 磐筒雄命 |
相殿 | 赤城姫命 |
境内社 | 赤城出世稲荷神社、螢雪天神、八耳神社、葵神社 |
住所 | 新宿区赤城元町1-10 |
祭日 | - |
備考 | 牛込総鎮守、旧郷社 |
赤城神社の由緒
赤城神社は、赤城山麓大胡の豪族大胡氏が上野国赤城神社の分霊を勧請して早稲田鶴巻町(元赤城神社地)に正安2年(1300)創建、大田道灌持資が牛込毫へ遷座寛正元年(1461)牛込へ遷座、牛込郷の総鎮守であったとといいます。明治維新後、郷社に列格していました。
境内掲示による赤城神社の由緒
後伏見帝の正安二年九月、上野国赤城山なる赤城神社の分霊を今の早稲田鶴巻町の森中に小祠を勧請。其後百六十余年を経て寛正元年大田道灌持資が牛込毫へ遷座。其後大胡宮内小輔重行が神威を尊び今の地に、始めて「赤城大明神」と称えるようになった。かくて天和三年幕府は命じて江戸大社の列に加え、牛込の総鎮守となる。(境内掲示より)
「牛込區史」による赤城神社の由緒
大胡氏が牛込に移ると共に上野赤城神社を勧請したもので、祭神は兩社同體である。(『神祇志科』に大己貴命を祭る、豊城入彦命とするは附會であるとして居る。又上野赤城三夜澤は大胡と一里餘の地にある)勧請は正安二年荏原郡田島で、(早稲田邊か)寛正元年太田道灌が今の地に遷したと『文政書上』には記してゐるが、大胡重行は年七十八で天文十二年に卒してゐるから、兩説の間に大分年代の開きがある。のみならず大胡氏の移住に伴つたといふ説の采當なことは、赤城境内から『池中蓮華、大如車輪、青色青光、黄色黄光、正安三年辛丑五月廿五日』と刻した板碑の發見せられたこと(『人類學雑誌』)によつても傍證されるやうに思はれる。舊時境内除地五千百九十六坪あつた。(「牛込區史」より)
東京都神社名鑑による赤城神社の由緒
当神社は正安二年(一三〇〇)の創祀にして、群馬県赤城山麓大胡の豪族大胡氏が牛込に移住のさい、本国の鎮守であった赤城神社の御分霊をお祭りしたものと伝えられ、最初は牛込早稲田村田島(今の早稲田鶴巻町、元赤城神社の所在地)に鎮祭したのを、寛正元年(一四六〇)太田道潅神威を尊び牛込台に遷し奉り、その後、弘治元年(一五五五)に至り大胡宮内少輔(牛込氏)の尊信特に深く、現在の地に遷し奉った。天保十三年(一八四二)の大火により、社殿その他烏有に帰し、翌年再建に着手したが、再建途上安政の大地震等の災も重なり、二十有四年の歳月を経て、慶応元年(一八六五)に復興した社殿は格天井に花鳥を描き、向拝には龍、欄間には牡丹唐獅子・奇禽異獣を彫刻した荘厳華麗なものであったが、昭和二十年四月の大空襲により社殿・神楽殿はもとより、赤門と呼ばれた表門まで一宇を残さず焼失した。(東京都神社名鑑より)
赤城神社の周辺図