鎧神社|祭神平将門公、柏木村鎮守
鎧神社の概要
鎧神社は、薬師堂(現円照寺)とほぼ同時期の平安時代に創建したと伝えられます。社号の鎧は、薬師堂に埋められたと伝えられる平将門の鎧に因んでいます。当地柏木村の鎮守として崇敬を集めています。
社号 | 鎧神社 |
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祭神 | 日本武尊、大己貴命、少彦名命、平将門公 |
相殿 | - |
境内社 | 天神社、稲荷社、三峯社、子の権現社 |
住所 | 新宿区北新宿3-16-18 |
祭日 | - |
備考 | よろい保育園併設 |
鎧神社の由緒
鎧神社は、薬師堂(現円照寺)とほぼ同時期の平安時代に創建したと伝えられます。社号の鎧は、薬師堂に埋められたと伝えられる平将門の鎧に因んでいます。当地柏木村の鎮守として崇敬を集めています。境内には、成子天神社が遷座する前の天神社(元天神社)が祀られています。
新編武蔵風土記稿による鎧神社の由緒
鎧明神社
(柏木)村の鎮守なり。平将門滅亡の後其鎧を祭りしと云。或は秀郷着領の鎧を祭りしとも云傳ふ。円照寺持下同じ。
末社。
稲荷、三峰。
天神社。
寛文年中本社を成子町へ移し(成子天神社)ければ、ここは元天神と云。(新編武蔵風土記稿より)
東京都神社名鑑による鎧神社の由緒
当社は江戸時代まで鎧大明神と称した。社名は日本武尊御東征のみぎり、甲冑六具の内をこの地に蔵めたことより起こる。降って天慶三年(九四〇)平将門公下総猿島に亡ぶるにおよんで、土俗の追慕して天暦(九四七-五七)のはじめのころ、将門公の鎧もまたここに埋めたという。別説によれば、藤原秀郷重病を得て円照寺薬師如来に参詣りした折、将門神霊の崇りなるを恐れ、公の鎧を寺内に埋め、一祠を建ててその霊を祀ったが、病たちまち癒えたのを里人恐れ畏み、以後鎮守の社として尊崇してきたという。(東京都神社名鑑より)
新宿区の文化財ガイドマップによる鎧神社の由緒
江戸時代までは鎧大明神と称し、柏木村の古社として村人の崇敬をうけてきた。鎧の社名は伝説によると、日本武尊命が東征してきた際に甲冑六具をこの地に納めたことより起ったといわれる。
また一説によれば、天慶3年(940)藤原秀郷により討たれた平将門の鎧を埋めたとか、病に苦しんでいた秀郷が本社の別当寺である円照寺に参詣した際に、将門の神霊のたたりではないかと思い、境内に将門の鎧を埋めて詞を建ててその霊を弔ったところ、病が全快したからともいう。それを聞いた村人たちは、その霊験あらたかなることを恐れ畏み、以後、柏木村の鎮守の社として近隣の崇敬をうけたといわれる。
また本社は天慶の乱の時、将門の弟将頼が陣地にした所ともいわれる。ある日将頼が鎧を脱いでここで休んでいると、秀郷の子千晴が奇襲してきた。
鎧をつける暇もなかった将頼は奮戦し、川越まで落ちのびたがついに戦死した。その後、疫病が流行した。これは将頼の霊が安住しないからだとして、一門の党首の将門の霊を祀ったのが鎧神社だという。
境内の天神社には、享保6年(1721)に奉納された素朴な狛犬があり、庚申塔に流用されており、とても珍しい。(新宿区の文化財ガイドマップより)
境内掲示による鎧神社の由緒
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し、此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶3年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺寺内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。(境内掲示より)
鎧神社所蔵の文化財
- 鎧神社の狛犬
鎧神社の周辺図