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成子天神社|新宿区西新宿の神社、成子村鎮守

成子天神社の概要

成子天神社は、新宿区西新宿にある神社です。成子天神社は、現在地より北よりの旧柏木村(新宿区北新宿付近)に延喜3年(903)鎮座、源頼朝や上杉憲実などの崇敬を受けたといいます。江戸時代に柏木村より成子村(町)が分村、寛文元年(1661)当地へ遷座したといいます。

成子天神社
成子天神社の概要
社号 成子天神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 富士塚、鷲神社、鳴子稲荷神社
住所 新宿区西新宿8-14-10
祭日 例祭日9月25日
備考 成子村鎮守



成子天神社の由緒

成子天神社は、現在地より北よりの旧柏木村(新宿区北新宿付近)に延喜3年(903)鎮座、源頼朝や上杉憲実などの崇敬を受けたといいます。江戸時代に柏木村より成子村(町)が分村、寛文元年(1661)当地へ遷座したといいます。

境内掲示による成子天神社の由緒

千百年を超える歴史を紡いできた「成子天神社」。このあたりはその昔柏木村鳴子と呼ばれ、当地にはもともと大神宮(ご祭神天照大御神)が祀られ、松や柏の樹々が茂る清らかな神域が広がっておりました。
平安時代の延喜三年(九〇三年)、九州の太宰府で菅原道真公が亡くなられたという報せを東国の地で受けた家臣の佐伯と斎宮は悲嘆極まりなく、その徳を慕い、洛陽(平安京)より、公の生前に彫られた像を柏木村に持ち帰りました。そして当地を菅公神社の神域とし、平和と文道の神としてお祀りし当社が設立されたのです。
その後、徳川三代家光公より春日局に柏木鳴子の地を賜り、局の勧請により天満天神社として社殿を造営。明治二十七年成子神社と改め昭和三年成子天神社と改称。その後戦災消失、昭和四十二年の再建等を経て、平成二十六年の御造営を迎えました。(境内掲示より)

東京都神社名鑑による熊野神社の由緒

延喜三年(九〇三)平和、文道の神と祀られ、建久八年(一一九七)源頼朝、社殿を造営、応永年間(一三九四-一四二八)上杉憲実、文書類を納めて御造営、慶長年間(一二四九-五六)将軍家光より春日局に柏木鳴子の地を賜わる。寛文元年(一六六一)局御造営後、円照寺に別当職として管理させる。正保年間(一六四四-八)円照寺が増築、元禄二年(一六八九)再び造営、局死後麟祥寺に賜わる。寛政三年(一七九一)祝融の災火で神宝・神器・記録のたぐいことごとく焼失。昭和二十年五月二十五日戦災焼失、昭和四十一年九月二十五日再建、現在にいたる。(東京都神社名鑑より)


成子天神社所蔵の文化財

  • 成子天神社の力石(新宿区指定有形民俗文化財)
  • 成子天神社の富士塚(新宿区指定史跡)

成子天神社の力石

力石は、祭礼などで余興として行われた力くらべに使われた卵型の大きな石です。成子天神社には七個が残っており、社殿前に並べられています。
七個すべてに銘文が刻まれていますが、このうち二個は判読できません。残りの五個には、四十貫(約一五〇キログラム)から五十八貫余(約二一八キログラム)に及ぶ重量や、虎松・喜太郎・亀治郎・市蔵という人名が刻まれています。人名は奉納者または持ち上げることができた人物の名であると思われます。
製作時期は記されておらず不明ですが、江戸時代末から明治時代頃のものと推定され、人名が重複していることから、ほぼ同時期に奉納されたものと考えられます。(新宿区教育委員会掲示より)

成子天神社の富士塚

大正九年(一九二〇)八月に、成子天神社境内にあった天神山という小山に富士山の溶岩を配して築かれたもので、区内で最後に築かれた富士塚です。高さは約十二メートルあり、区内では最大規模となっています。塚の北側には浅間神社の小祠があります。
富士塚は江戸時代中期より、江戸庶民の間で盛んになった富士信仰の遺跡です。同業者を中心に富士講が組織され、神社の境内に模造富士を築いて崇拝しました。
成子天神社の富士塚は、柏木・角筈地域(現在の北新宿・西新宿)の人々を中心に組織された丸富士成子講が奉祀していたもので、最盛期には約二〇〇名の講員がいましたが、現在は活動していません。(新宿区教育委員会掲示より)


成子天神社の周辺図