花園神社|三光院稲荷、花園稲荷、旧郷社、酉の市
花園神社の概要
花園神社は、慶安元年(1648)尾張公の別邸内に稲荷神社として創建したといいます。稲荷神社が尾張家の管理を離れ、当地にあった三光院が別当寺を務めていたことから三光院稲荷と呼ばれていたとも、尾張家の邸内が花園につつまれていたことから花園稲荷とも伝えられます。明治時代の神仏分離で三光院と分離、稲荷神社として村社に列格、大正5年に花園稲荷神社と改号しました。昭和3年には雷電稲荷神社を合祀、郷社に列格しました。さらに昭和40年には境内社の大鳥神社を合祀、花園神社と改号しました。
社号 | 花園神社 |
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祭神 | 倉稲魂命、日本武尊(旧大鳥神社)、受持神(旧雷電神社) |
相殿 | - |
境内社 | 威徳稲荷神社、芸能浅間神社 |
住所 | 新宿区新宿5-17-3 |
祭日 | 酉の市:11月酉の日 |
備考 | 村社 |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
花園神社の由緒
花園神社は、慶安元年(1648)尾張公の別邸内に稲荷神社として創建したといいます。稲荷神社が尾張家の管理を離れ、当地にあった三光院(四谷愛染院の別院)が別当寺を務めていたことから三光院稲荷と呼ばれていたとも、尾張家の邸内が花園につつまれていたことから花園稲荷とも伝えられます。明治時代の神仏分離で三光院と分離、稲荷神社として村社に列格、大正5年に花園稲荷神社と改号しました。昭和3年には雷電稲荷神社を合祀、郷社に列格しました。さらに昭和40年には境内社の大鳥神社を合祀、花園神社と改号しました。
東京都神社名鑑による花園神社の由緒
花園神社は古来新宿の総鎮守として内藤新宿におけるもっとも重要な位置を占めきたった神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にて、大和国吉野山より御勧請せられたと伝えられる。寛永年中(一六二四-四三)以前の社地は、現在の株式会社伊勢丹の地域にあり、東西六十五間、南北七十五間にわたった神域であった。朝倉筑後守この地に下屋敷を拝領されるにおよび、神社をも下屋敷の内に囲い込まれたので、その由を御訴えにおよび、現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。昭和三年、本社再建、神苑を整備した。同二十年五月、帝都大空襲により一宇を残さず焼失した。(東京都神社名鑑より)
花園神社所蔵の文化財
- 花園神社の唐獅子像(新宿区指定有形文化財)
花園神社の唐獅子像
文政4年(1821)に造立された雄雌一対の銅製の唐獅子像である。
内藤新宿の氏子たちにより寄進されたもので、台座の銅板には発願者等の名が刻まれている。
像高75cm、台座は高さ137cm、幅119cmで、江戸末期の鋳工として名高い初代村田整珉の作である。
花園神社は慶安元年(1648)尾張公の別邸内に創建された。別邸内に花園があったところから花園神社と呼ばれ、内藤新宿の鎮守として信仰された。(新宿区教育委員会掲示より)
花園神社の周辺図