獨鈷山愛染院|御府内八十八ヶ所霊場、国学者塙保己一の墓
愛染院の概要
新義真言宗の愛染院は、獨鈷山光明寺と号します。愛染院の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が関東巡錫の折、麻布善福寺の地に創建、本尊五指量愛染尊を安置、大日如来より八祖相承之獨鈷を納めていたといいます。その後正斎が麹町貝塚に慶長16年(1611)中興、寛永11年江戸城外堀建造のため当地に移転したといいます。当寺には内藤新宿を開発した元浅草の名主高松喜六や、群書類従編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一の墓があり新宿区文化財に指定されています。御府内八十八ヶ所霊場18番札所です。
山号 | 獨鈷山 |
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院号 | 愛染院 |
寺号 | 光明寺 |
住所 | 新宿区若葉2-8-3 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 大日如来像 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 御府内八十八ヶ所霊場18番 |
愛染院の縁起
愛染院の創建年代等は不詳ながら、弘法大師が関東巡錫の折、麻布善福寺の地に創建、本尊五指量愛染尊を安置、大日如来より八祖相承之獨鈷を納めていたといいます。その後正斎が麹町貝塚に慶長16年(1611)中興、寛永11年江戸城外堀建造のため当地に移転したといいます。
「四谷區史」による愛染院の縁起
獨鈷山光明寺愛染院は、大塚護持院末の新義眞言宗で、四谷南寺町今の寺町にある。境内は千五百廿坪餘の拝領地で、起立は慶長十六年辛亥、麹町貝塚邊が元地であつた。寛永十一年甲戌十二月に此地に替地を賜うて移轉したのである。
文政寺社書上に據れば、「當寺開闢之儀は、人王五十二代嵯峨天皇御宇、弘仁年中弘法大師關東弘法之爲、當國に一宇御建立、今之麻布善福寺之地也。然に當院は右奥之院にて、御守本尊五指量愛染尊を安置し、大日如来より八祖相承之獨鈷を納め給、故に山號を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて、不能住職之僧も拝、其後星霜相移り、年月相知れ不申候」と傳へて、その来由することの頗る古きを語つて、慶長當時の開山正斎はその中興と稱して居る。此地に移つて以来、住持を替ふること八代、寶暦十年庚辰梵鐘を鑄たが、鐘銘中に「元禄壬午以至享保乙巳之年、池肴殃掃地四、惟愛染堂假而毎免、可謂幸矣」といふことが見えて、愛染尊の功徳嚴然たるを稱へてゐる。
門前町屋は總坪數三百二十二坪餘、寶永元年甲申五月許可を得て作事出来した。る(「四谷區史」より)
愛染院所蔵の文化財
- 高松喜六の墓(新宿区指定文化財)
- 塙保己一の墓(新宿区指定文化財)
高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。
喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。
翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。
正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。
塙保己一の墓
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生まれた。姓は萩野、幼名は辰之助といった。
5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。
優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。
天明3年(1783)検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけた。寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
文政2年(1819)群書類従を寛政させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳であった。
墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。
愛染院の周辺図