穴八幡宮|新宿区西早稲田の神社

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穴八幡宮|八幡太郎義家が奥州平定後創建

穴八幡宮の概要

穴八幡宮は、新宿区西早稲田にある神社です。穴八幡宮は、八幡太郎義家が前九年後三年の役で活躍、凱旋の帰途にあった康平年間創建したと伝えられるといいます。寛永13年(1636)に持弓頭松平五新左衛門直次の同心が的場を造営した際、傍にあった松に鳩が三羽づつ宿ったことから瑞祥の兆しだとして、寛永18年(1641)に石清水八幡宮を勧請、神社を造営しようと山麓を穿ったところ洞穴を発見、銅製の阿弥陀仏があったことから本地佛として祀ったといいます。同年徳川家光が生誕、德川秀忠が当社を訪れて以降崇敬篤く、慶安元年には社殿を再造、徳川家の祈願所となったといいます。元文3年(流鏑馬)より興行された流鏑馬の神事は、新宿区無形民俗文化財に指定されています。

穴八幡宮
穴八幡宮の概要
社号 穴八幡宮
祭神 応神天皇、仲哀天皇、神宮皇后
相殿 -
境内社 若宮八幡宮、東照宮、稲荷社、氷室明神、春日明神・子安明神・天満宮・厳島神社
住所 新宿区西早稲田2-1-11
祭日 -
備考 旧源兵衛村鎮守



穴八幡宮の由緒

穴八幡宮は、八幡太郎義家が前九年後三年の役で活躍、凱旋の帰途にあった康平年間創建したと伝えられるといいます。寛永13年(1636)に持弓頭松平五新左衛門直次の同心が的場を造営した際、傍にあった松に鳩が三羽づつ宿ったことから瑞祥の兆しだとして、寛永18年(1641)に石清水八幡宮を勧請、神社を造営しようと山麓を穿ったところ洞穴を発見、銅製の阿弥陀仏があったことから本地佛として祀ったといいます。同年徳川家光が生誕、德川秀忠が当社を訪れて以降崇敬篤く、慶安元年には社殿を再造、徳川家の祈願所となったといいます。

境内石碑による穴八幡宮の由緒

穴八幡宮は康平年間八幡太郎義家が奥州の乱を夷げ凱旋の途に創祀す。
慶安元年三代将軍徳川家光江城鎮護の為宏壮なる社殿を再興、幕府祈願所として重んぜらる。明治維新後は、皇室歴代の御蟲封を謹修そ奉る。神徳弥光を増し崇敬年々数を加う。手水舎は昭和二十年の戦災にて本社諸殿宇と同時に類焼し延宝再建の時大森信濃守の奉納せる巨水盤又破砕し了ぬ。今茲氏子崇敬者の篤志に依て手水舎の新築成就す。内に境内南麓霊窟の傍に鎮座せし布袋の尊像を移して安置せり。この像は始め江戸城吹上の御庭にありしを慶安二年社殿竣工の節家光将軍奉納に係る東都随一の霊像にして右来信仰者最も多し、もと手水鉢たりし由縁を以て此所に移すに当り縁起を略述して碑に刻す。(境内石碑より)

東京都神社名鑑による穴八幡宮の由緒

康平五年(一〇六二)源義家公このところに兜と太刀を埋め、氏神八幡宮を創祀、東北の鎮護とした。慶安二年(一六四九)三代将軍家光再興、八千八百余坪の境内に四十二坪の本殿をはじめ数々の殿舎落成、将軍家の祈願所として江戸屈指の大社となり、同時に奉納された三基の神輿は、牛込三十六町の氏子から出された山車練物を従え、神楽坂の旅所に神幸、日枝・神田に次ぐ盛大な祭礼であった。社殿は延宝(一六七三-八一)以後幕府により数次の営繕があったが、特に元禄(一六八八-一七〇四)の造営は江戸の権現造社殿として日枝・根津と並んで最大なものであったが、安政の青山火事(一六五九)にて全焼。明治初年再建の社殿も明治末に焼失、大正から昭和初年までにおよんで、ようやく江戸期の盛時に近い社殿が完備したが、今次の戦災によりことごとく焼失した。(東京都神社名鑑より)

「牛込區史」による穴八幡宮の由緒

牛込の總鎮守で、(神楽坂上に旅所のあつたことが『江戸名所圖會舎』に見えてゐる)寛永十三年に幕府の手で造立された。別當放生寺は沙門良昌が開いたので、山の中腹に洞穴があり、中に金銅の阿彌陀が立たせ給うたによつて穴八幡の稱を得たと云ひ傳へる。嚴有院(家網)及び桂昌院の信仰を得て、元禄年中に社殿が造築され、(裏門は内藤豊前守、普賢堂は松平左近将監、御手水垣は増山兵部少輔寄進)結構が備はるに至つた。此神社が武家の信仰を蒐めたのは、附近に弓場、馬場などがあり、始め武門の神として祀られた事に起因すると想像される。(「牛込區史」より)

新編武蔵風土記稿による穴八幡宮の由緒

(下戸塚村)八幡社
穴八幡と号す、正八幡なり。神功皇后仲哀天皇を合祀す、共に大橋龍慶霊端を得て、牛込榎町の古榎樹を以て彫刻し寛永十九年四月八日多磨郡中野宝仙寺住僧秀雄開眼せる由裏銘あり、社傳に云此所おり八幡の小祠及ひ阿弥陀堂あり、年を経て荒廃し、神木の老松一樹残りしか、寛永十三年御持弓頭松平五新左衛門直次に属せし同心の輩(同心居宅は早稲田にあり)、彼神木近き所に的場を築きしに、其松に鳩三羽つつ宿りて神霊影向の端ありければ、相謀て同十八年石清水八幡宮を勧請し良昌をして別当たらしむ、依て草庵を造営せんとて山麓を穿ちけるに、一つの穴あり人々怪しみ燈を取て内を伺へは、銅佛の阿弥陀長三寸許なるを得たり、是八幡の本地なれはとて、則神殿に安置し、今に秘佛とすと、「寛永記」「江戸雀」等に載る所も社傳と大同小異あり、同年大猶院殿御放鷹の時当社へ御立寄あり、此俊厳有院殿御誕生あらせられ、又別当良昌兼て霊夢を蒙りし次第を聞召され、殊に当社を御崇敬ありて慶安元年本社以下諸堂社に至るまで悉く御建立あり、其時当山の地形は加賀中納言利常寄進し、其余の諸侯旗本の士も当社以下を寄附せり。明る二年落成して遷宮の式を行はる、この年厳有院殿御参詣、其後社地に御舞臺を作られ、大猶院殿成らせられ、能上覧有て後に神事能興行あり、役者大蔵勤む、御名代柳生但馬守に命せらる、年経て社頭回禄の後延宝六年御再建あり、棟札の文に、
聖主天中天 迦陵頗伽聲 為大檀那 征夷大将軍源家綱公御武運長久
奉再興武州豊島郡牛込郷光松山放生寺八幡宮一宇 御鎮守東照宮并末社等
哀愁衆生者 我等今敬礼 御子孫審栄天下泰平五穀成就萬民豊楽所
寺社奉行 松平山城守 板倉石見守 太田摂津守 別当放生寺住持権大僧都宗洗
延宝徳年戊午伸冬十五日 御大工棟梁 甲良豊前宗清、同助五郎宗員
後又大破に及ひ、元禄十六年再ひ御修繕あり棟札の文に、
聖主天中天 迦陵頗伽聲 為大檀那 征夷大将軍正二位内大臣源綱吉公卿武運長久御子孫繁栄所
奉再興武州豊島郡戸塚村光松山放生寺八幡宮一宇華表二基
哀愁衆生者 我等今敬礼 為天下泰平萬民豊楽躰寿堅固長保徳創建
御鎮守 総営建事 従五位下但馬守藤原朝臣秋元氏喬朝、従五位下対馬守源朝臣稲垣氏重富
東照宮并末社等護摩堂鐘楼堂神輿堂楼門舞臺寺院等
元禄十六年未年五月五日御普請奉行 曲淵伊左衛門源重羽、竹田藤右衛門藤原政、伊藤新右衛門藤原□□
別当権大僧都法印本如
御大工棟梁 大谷甲斐藤原正矩 大谷平太夫藤原基矩
元文二年諸堂社助成のため、本所松井町にて千五百坪の町屋敷を賜ひ、延亨二年当社祭礼の時、神輿の旅所として牛込神楽坂上にて二千七百十五坪を拝借地に成給ふ、此内九百二十坪は麹町にて替地を給ひ、今神楽坂上には続に三百坪残れり、又元文三年二月九日竹千代君御降誕の事により、当社へ御報賽のため高田馬場に於て流鏑馬興行あり、それより以来御厄年及若様御降誕等には、必当社御祈祷として流鏑馬の式あり、又社傳に永承中源頼義、安倍貞任征伐之後当国豊島郡へ八幡三社鎮座の一なりとみえたれど、固より據とすへき事なければ爰にて記載せす、例祭八月十五日、昔はこの邊の三十六ヵ町より鉾練物等を出し、牛込神楽坂旅所まで、神輿を渡し、牛込御門外にて天下安全の御祈祷修行せしと云、今は廃して社地内のみ式あり。
社寶
御具足一領。厳有院殿御召初の品なり、慶安二年当社御造営落成ありて遷宮の時、御寄納ありと云、外に御幼時の御手遊物なりとて布袋及駒の二物あり。
準提観音一躰。寶樹院殿の御寄附なり。
流鏑馬絵巻物二巻。奥書に、右流鏑馬二軸者、今茲戊午春二月初卯日為穴八幡神事於高田馬場所行之図也、此蓋去歳中当竹千代君御降誕前、因御願兼有御催、公事繁劇延及今春也、既而君有御降誕、遂被催報賽、其事者小笠原常春徒命令門人若干人勤之、元文三年歳次午冬十二月とあり。
大般若経一部。慶安御造営の時、松平外記寄附する所なり、此頃松平長門守も御礼旗十二旒を寄附せしか、今は損失せり。
東照宮。慶安元年本社御造営の時、社地の鎮守として御勧請あらせられ、延宝元禄二度の御再建にも御修営あり。
末社。
氷室明神。慶安元年本社御造営の時建せらるる所なり、扉の金物は葵御紋を彫れり。
稲荷。小祠なり、是も同時に御建立あり。
若宮八幡。是も御造営の時、松平新五左衛門直次の与力同心等造立する所なり。
太神宮。春日。天満宮。子安明神。荒神。四所明神。弁財天。以上七社は慶安の度御造営ありし所にて、延宝、元禄の二度にも御修営を加へられしに、今廃して再建に及はす。
観音堂、神楽堂。以上二宇は慶安の度御建立ありし所なり、
鐘楼。是も同時に御建立あり、鐘に慶安元年の銘を彫れり。
普賢延命堂。是も慶安の度松平和泉守造立す。
護摩堂、神輿堂。以上二宇も同時に御建立ある所にして、御修営も前に同し今は廃す。
出現堂。酒井日向守建立する所なり、是も今廃す。
回廊。蜂須賀飛騨守、水野周防守の造立する所にて是も今廃せり。
石手水鉢。大森信濃守寄進す。
石燈籠。渡邊十郎左衛門寄進す。
銅鉤燈籠。池田勘兵衛寄進す。
石重塔。柴田三左衛門寄附す、出現堂以下ここに至るまで皆慶安の度寄附する所なり。
銅燈籠。正徳三年御本丸奥女中寄進す。
放生池。本社の麓にあり、竪十間余、横二間余、此池の石垣瑞籬は、慶安御造営の時増山兵部少輔寄附せしに、今は廃せり。
的場。本社の前にあり、是前に云寛永十三年松平新五左衛門が組の者築し所にて、今に其筋の者射芸を講する所なり。
神木光り松。本社の巽の方にあり、古木は枯て後に植継しものなり、古松は則前に云鳩の宿りし樹なり。厳有院殿御降誕の時幹より光りを放ち、霊瑞を顕す、故に此名を得、光松山の号も是より起れりと云。
石布袋手水鉢。出現堂跡の側にあり、元吹上御庭中に在し由、厳有院殿の賜物なり。
随身門惣門。以上二宇は慶安の度御建立ありし所なり。
裏門。これも慶安の度内藤豊前守造立す。(新編武蔵風土記稿より)


穴八幡宮所蔵の文化財

  • 高田馬場の流鏑馬(新宿区指定無形民俗文化財)

高田馬場の流鏑馬

享保十三年(1728)德川将軍吉宗が世継の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が奉納された。
明治維新以降中断し、昭和九年に皇太子(現天皇)誕生祝いのため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和三十九年流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和五十四年からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年十月十日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。(東京都新宿区教育委員会掲示より)


穴八幡宮の周辺図