放生寺|新宿区西早稲田にある高野山真言宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

光松山放生寺|御府内八十八ヵ所、江戸三十三観音

放生寺の概要

高野山真言宗の放生寺は、光松山威盛院と号します。放生寺は、良昌上人が徳川家光の生誕と告げる霊夢を寛永16年に夢見、江戸に上京松平新五左衛門の屋敷に寄宿、穴八幡宮の創建に尽力し、徳川秀忠より光松山放生會寺の寺号を賜ったといいます。本尊の聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、御府内八十八ヵ所霊場30番、江戸三十三観音15番、山の手三十三観音霊場16番、東京三十三観音霊場22番札所となっています。

放生寺
放生寺の概要
山号 光松山
院号 威盛院
寺号 放生寺
本尊 聖観世音菩薩
住所 新宿区西早稲田2-1-14
宗派 高野山真言宗
葬儀・墓地 -
備考 御府内八十八ヶ所霊場30番、江戸三十三観音15番、山の手三十三観音霊場16番、東京三十三観音霊場22番



放生寺の縁起

放生寺は、良昌上人が徳川家光の生誕と告げる霊夢を寛永16年に夢見、江戸に上京松平新五左衛門の屋敷に寄宿、穴八幡宮の創建に尽力し、徳川秀忠より光松山放生會寺の寺号を賜ったといいます。本尊の聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、御府内八十八ヵ所霊場第三十番札所、江戸三十三観音第十五番札所となっています。

境内掲示による放生寺の縁起

放生寺は寛永十八年(1641)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。
良昌上人は、高野山奥の院、安芸宮島さらには諸国を修行していた折の寛永十六年二月霊夢の中に老翁現れ、「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ。」と告げられ、直ちに堂宇に籠もって大願成就を厳修、慶安二年良昌上人より寺社の由緒を聞かれ、「威盛院光松山放生會寺」の寺号を賜り、付近一帯は放生寺門前と称されていました。爾来、将軍家の数新殊の外篤く徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格として独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)衣の着用を許されました。
さらには、御遊猟の際に当山を御膳所に命ぜられるなど、と德川實記には放生寺と将軍家との往来が詳細に記されております。
開創当時から明治までは、神仏習合により穴八幡別当放生寺として寺と神社は同じ境内地にあり、代々の住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治二年、当山十六世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。
このように当山は、徳川家由来の観音霊場として広く知られ殊に本尊聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、御府内八十八ヵ所霊場第三十番札所、江戸三十三観音第十五番札所として多くの人々の尊信を集めております。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による放生寺の縁起

(下戸塚村)(穴八幡宮)別当放生會寺
古義真言宗、高野山寶性院末、光松山威盛院と号す、本尊不動を安す。開山良昌は周防国の産にて、俗称は榎本氏、高野山寶性院青山に投じて薙染し、諸国を経歴して、寛永十六年陸奥国尾上八幡に参籠の夜、将軍家若君辛巳年夏の頃御降誕あるへき由霊夢を得たり、其後当国に来り、しるへの僧室に暫く錫を止めしに、同十八年松平新五左衛門か組の者の請に任せ、当社の別当職となれり、此事いつとなく、上聞に達せしかば、大猶院殿御放鷹の時当山に御立寄ありて、良昌を召させられ、社の由緒を聞しめされ、光松山放生會寺の号を賜はれりと云、是より以来此邊御遊猟の時は、当寺を御膳所に命せられて、今に然り、良昌は寛文九年十月廿六日寂せり。
什寶。
柳に竹の御書一幅。台徳院殿の御筆と云、自賛の和歌あり、柳ちるかた岡のへの秋風に、一つふたつの家にかくるる、
扇子一握。大猶院殿の賜物にて、開山良昌拝領す、便面に御筆の詩歌あり、左の如し。飛鳥去邊山侶眉、空低瑞潤影遅遅、上林雖好非栖處、一任千枝與萬枝 雁かへる常世の花のいかなれや、月はいづくも霞む春のよ。
福禄壽御画一幅。常憲院殿の御筆なり、落款に御諱あり。
楊柳観音画像一幅。探幽の筆なり。
百體大黒天画像一幅。
当山縁起二巻。寛永十八年十二月大橋龍慶の撰にて、男長左衛門重政の筆なり。
錫杖記一巻。相傳ふ、寛永年間神體の手に持所錫杖の連鎧一輪離去し時、しやくしやうの六字を歌の頭に置て百首の和歌を詠し、神前に供へしかは、日ならずしてかの環舊に復せしなり、此巻其事を記せり。
不動愛染の画像各幅。弘法大師筆。
心経一巻。同筆。
十六善神画像一幅。
打出小槌。由来記一巻あり、此槌縉紳家水無瀬家の女感得せし所也、昔聖武天皇の此の如き寶物を山城国銭原の一宇に御寄納ありしかは、彼寺を寶寺と号す。信心の男女祈願の意趣を掌に書して、此槌もてその掌を打ては所願成就すと云、槌図右の如し、槌とはいへとも、其形は槌に似ず、寛永二乙酉年三月松尾院達賢と記せるものを併せ蔵せり、このこと山城寶てっらにも見ゆ。
仏舎利。舎利記一巻あり。
寺中。
松済院、光済院。是は廃院となりて未再建に及ばず。
門前町屋間口八十間、歩数四百九十二。(新編武蔵風土記稿より)


放生寺の周辺図