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天龍寺|新宿区新宿にある曹洞宗寺院

天龍寺の概要

曹洞宗寺院の天龍寺は、護本山と号します。天龍寺は、小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚を開山、戸塚忠春とその娘の西郷の局を開基として牛込に創建しました。江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたといいますが、天和3年(1683)牛込の火事で類焼、当地へ移転しました。牧野備後神成貞の寄進により鐘が寄進され、内藤新宿に時刻を告げる「時の鐘」として明治維新まで利用されました。当寺のある新宿は江戸城から遠く登城に時間がかかるため、江戸には八ヶ所ある時の鐘のうち当寺の時の鐘のみ、朝四半刻(30分)早く鐘をうっていたといい、新宿で遊興していた人々を追出す鐘とともなっていたため、「追出しの鐘」として頗る評判が悪かったともいいます。東京三十三観音霊場17番札所です。

天龍寺
天龍寺の概要
山号 護本山
院号 -
寺号 天龍寺
住所 新宿区新宿4-3-19
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 東京三十三観音霊場17番



天龍寺の縁起

天龍寺は、宝徳元年(1449)天竜川ほとりあった法泉寺を前身とし、檀越の戸塚忠春の娘が徳川家康の側室となり、徳川秀忠の生母となったことから、法泉寺七代目心翁の代に戸塚牛込御徒町西馬場に移転、その際に天龍寺と改めて創建したといいます。小田原最勝寺五世の春屋宗能和尚を開山、戸塚忠春とその娘の西郷の局(徳川秀忠の生母)を開基とします。牛込にあった時には、江戸城表鬼門を鎮護する上野寛永寺に対し、裏鬼門を護る寺とされていたといいますが、天和3年(1683)牛込の火事で類焼、当地へ移転しました。当寺を菩提寺としていた牧野備後神成貞の寄進により鐘が寄進され、内藤新宿に時刻を告げる「時の鐘」として明治維新まで利用されました。当寺のある新宿は江戸城から遠く登城に時間がかかるため、江戸には八ヶ所ある時の鐘のうち当寺の時の鐘のみ、朝四半刻(30分)早く鐘をうっていたといい、新宿で遊興していた人々を追出す鐘とともなっていたため、「追出しの鐘」として頗る評判が悪かったともいいます。

「四谷區史」による天龍寺の縁起

相州小田原大慈院末であつて、四谷追分にある曹洞宗、護本山天龍寺は寺格も獨禮であるから昔時は四谷第一の巨刹であり、境内拝領地壹萬二千二百九坪貮合七勺を有した。開闢起立に關しては、文政書上げに、「護本山天龍寺者遠州倉見領西郷村瀧谷法泉寺七代目心翁と申僧住持之節、天文廿三年十一月八日西月友船公ヲ焼香仕、就夫法泉寺ヲ御當地江以上意引来候。其由来は右西月友船公台徳院様御母公寶臺院様之御親父に御座候、依之権現様關東御入國之砌、本多佐渡守様江被仰付、友船公位牌御當地江引移候様被仰付、則心翁儀右位牌持参仕、法泉寺引来、於牛込寺地被下置、寺號を天龍寺と開闢被仰付、則友船公被爲成開基、爲花供具料境内三萬六千坪被下置、心翁住持仕候、其後程過、寛永十一戌年同十二亥兩年貮萬坪餘爲御用地被召上、境内も狭く、友船公之御供具等も不如意に候得共、右御由緒故明暦三年大火事之節從手前奉願、八王子千人衆之宿を仕、御城御普請も成就仕、其後御城被爲召、松平伊豆守殿安藤右京進殿幷安藤治右衛門殿松田六郎左衛門殿御立合、伊豆守殿被仰渡候は、此度千人同心之宿仕段上聞、御喜悦被思召候、依之白銀五百枚被下置、御城下寺院雖多、大切之折柄御用達候上は、何様之儀有之候共、寺地異變有之間鋪由被仰渡候、同翌年台徳院様貮拾七年之御忌御相當之節、拙寺八代乾界と申僧、段々御起立之御由緒申上、爲御法事千人江湖執行仕候、其後焼失仕候得共、最前被仰渡候儀申上候得ば、寺地其通罷在候、然處天和三癸亥年類焼仕候處、爲御用地被召上、四谷新宿之先追分におゐて、只今の寺地壹萬貮千貮百九坪貮合七勺之場所拝領仕候、右前段御起立之御由緒を以、前々御年禮之節も乗輿獨禮相勤、壹束壹本兩御本丸江献上仕、幷御代替之節も於大廣間獨禮座一同御禮申上、壹束壹本献上仕候、於檜間時服拝領、且納經拝禮相勤、御施物三拾貫文頂戴仕候。是則最初御取立之御趣意を以、寺格に對し被成下候儀と難有奉存候」と見えて、幕府は特別の待遇を與へたのであつた。牛込時代の三萬餘坪は今の納戸町細工町に亘る地であり、その天龍寺と號したのは、遠州瀧谷は天龍川上であつたからである。
開山春屋宗能和尚は康正二年三月十九日を以て寂した。小田原大慈院大綱和尚の弟子であつた。開基に關しては遠く遠州瀧谷時代のことであり、その後度々類焼の厄に遇うて舊記もなく不明である。江戸に於る中興開山は心翁永傳和尚で寛永十四年十一月二十八日に寂した。遠州佐野郡西郷村法泉寺禅鑑和尚の弟子であつた。中興の開基を西月友船禅定門とすること前記の如くであるが、この人は俗名を戸塚五郎太夫忠春と稱し、天文二十三年十一月八日陣歿した遠州法泉寺の代々の壇方であつた。これに寶臺院殿も開基に加へてゐる。從て本堂には本尊千手観音の外に開基二人の位牌を安置したが、何れも家康自鉈を以て作つたものである。
明和四年以来此寺に於ては時報を撞いた。これが出銀は、当方十七町程、西方二十町程、南方八町程、北方八町程からその費用を徴したことが書上に載せてある。山手の時鐘として音に聞えたもので、新宿の嫖客に後朝の涙を絞らせた響も、實際土地が城に遠隔なるが故に附近に住する役人の爲、登城の時刻を遅らせじと、他所より早目に撞くのを慣例としてゐたのであつた。
天和三年より追分に引地になつた時から、五千餘坪の門前町屋を有したことは既記した如くである。(「四谷區史」より)

天龍寺所蔵の文化財

  • 天龍寺の時の鐘(国重要美術品)
  • 天龍寺のやぐら時計(区指定文化財)

天龍寺の時の鐘

天龍寺の鐘は、元禄13年(1700)牧野備後神成貞により寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」である。
現在の鐘は、銘文により元禄13年の初鋳、寛保2年(1742)の改鋳につづく三代目のもので明和4年(1767)の鋳造である。
総高155cm、口径85.5cmで多摩郡谷保村の関孫兵衛の鋳造になる。
天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々を追出す合図であり「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここだけが府外であり、武士も登城する際時間がかかったことなどから三十分早く時刻を告げたという。
なお、上野寛永寺市ヶ谷亀岡八幡神社とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。(新宿区教育委員会掲示より)

天龍寺のやぐら時計

時の鐘とともに牧野備後神成貞が寄進したもので、この時計をもとに鐘を撞いたという。
時計は、高さ103センチのやぐら型の台にのっているため、やぐら時計と呼ばれる。
本体は縦24.5cm、横16.5cm、奥行16.3cmの箱型で、上に高さ11cm、径15.1cmの鐘が付いている。
文字盤は明治以後二十四時間制に取替えられているが、中央に牧野家の三つ柏の紋がついている。(新宿区教育委員会掲示より)


天龍寺の周辺図