成宗白山神社|大宮八幡宮とほぼ同時期に創建
成宗白山神社の概要
成宗白山神社は、杉並区成田東にある白山神社です。成宗白山神社の創建年代は不詳ですが、大宮八幡宮とほぼ同年代(源頼義が奥州征伐に向った後冷泉院(在位1045~1068)時期)に創建したといいます。
社号 | 白山神社 |
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祭神 | 伊弉册命 |
相殿 | - |
境内社 | 御嶽神社・稲荷神社・金刀平神社・第六天神社合殿 |
祭日 | - |
住所 | 杉並区成田東2-2-2 |
備考 | - |
成宗白山神社の由緒
成宗白山神社の創建年代は不詳ですが、大宮八幡宮とほぼ同年代(源頼義が奥州征伐に向った後冷泉院(在位1045~1068)時期)に創建したといいます。
杉並区教育委員会掲示による成宗白山神社の由緒
当社は旧成宗村字白幡の鎮守で、祭神は伊弉册命です。
『新編武蔵風土記稿』によれば地名の「白幡」について「往古人王七十代後冷泉院(在位1045~1068)の御字、奥州の夷賊蜂起しければ……」とあり、源頼義が奥州征伐のみちすがら、空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと1社を勧請し、その時からこの地を白旗(白幡)と呼んだと伝えています。また、成宗村については永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳』に「永福、沼袋、成宗3ヶ村、弐拾壱貫文、島津孫四郎」とあるので古村であることがわかります。この成宗村は江戸時代に天領(幕府直轄の領地)になるまでは旗本・岡部氏の知行地になっていました。なお、「白幡」はかつて一時期ではあるが和田村に属していたと思われます。
当社は『新編武蔵風土記稿』多摩郡成宗村の条に白山社とあって「除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てて鳥居をたてり」と記されており、江戸時代には村内の宝昌寺が別当職を務めたといわれています。
創建については記録もなく、詳かではありませんが、古墳時代の土器等が発見されていることから大宮八幡宮と同じ頃だと考えられます。
現在の当社は境内末社に御嶽神社・稲荷神社・金刀平神社・第六天神社の四社を合殿し、社殿(昭和47年新築)、社務所(昭和55年新築)、神輿庫などの景観を整えています。(杉並区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による成宗白山神社の由緒
(成宗村)白山社
除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てて鳥居をたてり。村内宝昌寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
「杉並の神社」による成宗白山神社の由緒
当社は『新編武蔵風土記稿』多摩郡成宗村の条に白山社とあって「除地六畝、東南の方小名白幡にあり、社は二間半に二間南向、社より十二間ほど隔てて鳥居をたてり」とある。旧成宗村字白幡の鎮守であった。創建は大宮八幡宮・尾崎熊野神社とほぼ同年代という。明治十二年の『神社明細帳』(東京都公文書館蔵)は当社について、
成宗村字東白幡 無格社 白山神社
一、祭神 伊井冊命
一、由緒 不詳
一、社殿間数。本殿間口三尺奥行三尺、拝殿間口三間奥行二間
一、境内坪数 四百十一坪 官有地
とある。また今日の白山神社は左のごとくである。
一、祭神 伊弉冊命
二、境内末社(一社) 御嶽神社・稲荷神社・金刀平神社・第六天神社(以上合殿)
三、境内地 四七〇坪
四、主要建物 本殿四坪、幣殿三坪、拝殿七・五坪(以上鉄筋コンクリート造)末社二・二五坪、神輿庫五坪、社務所二〇坪、社番宿舎七・五坪
五、例祭日 九月十四日
六、由緒
当社の創建年代は詳かでないが、地名の白幡は『新編武蔵風土記稿』 に、
村の東の方にあり。和田村八幡の縁起に云。往古人王七十代後冷泉院の御宇、奥州の夷賊蜂起しければ、源頼義公勅を蒙り追討せんとて進発し給ひ、此所に向ひ給ふとき、林中より奇雲たなびき、恰も白幡の如く見えけるにぞ、是八幡来降し給ふならむとて、一社を勧請し、遂に賊徒を追伏したまふ。かゝるゆへをもて此ほとりをすべて白幡と名付しといふ、さればもと和田村の内なりしが、今は当村(成宗村)に属せり。
とあって、この地はもと和田村に属しており、当白山神社も大宮八幡宮とほぼ同年代に創建されたという。江戸時代には村内の宝昌寺が別当職を務めていた。社殿は昭和四十七年十月に新築、末社はもと本殿の右側に三社あったが、同年に現在地に合殿の御嶽神社は村内御嶽講中の肥るところである。祭日は八月下旬(九月十四日)である。(「杉並の神社」より)
成宗白山神社の周辺図