泉涌山龍光寺|平安時代末期の創建
龍光寺の概要
真言宗室生寺派寺院の龍光寺は、泉涌山医王院と号します。龍光寺は、承安2年(1172)の開創、龍観和尚(明応2年1493年寂)開山とされています。もと和泉熊野神社・貴船神社の別当で、宝仙寺末でした。明治初年に日照寺(杉並区永福1-34)を合併、現在に至っています。
山号 | 泉涌山 |
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院号 | 医王院 |
寺号 | 龍光寺 |
住所 | 杉並区和泉3-8-39 |
本尊 | 薬師如来立像 |
宗派 | 真言宗室生寺派 |
葬儀・墓地 | 龍光寺大師堂 |
備考 | 和泉熊野神社のもと別当 |
龍光寺の縁起
龍光寺は、龍観和尚(明応2年1493年寂)が開山となり、承安2年(1172)創建したと伝えられています。もと和泉熊野神社・貴船神社の別当、宝仙寺末でした。明治初年に日照寺(杉並区永福1-34)を合併、現在に至っています。
杉並区教育委員会掲示による龍光寺の縁起
当寺は、泉涌山医王院と号する真言宗室生寺派の寺院です。本尊は薬師如来立像で、杉並区内では珍しい平安時代末期(12世紀前半)に造立されたものです。
開創は、明治10年の書上げによると承安2年(1172)とされ、開山は寺伝によれば龍観和尚(明応2年1493年寂)と伝えられています。
山号の泉涌は、和泉の地名の由来ともなった貴船神社(和泉3-22)の泉に、院号の医王は、本尊の薬師如来に因むものといわれています。また寺号の龍光は当時のすぐ下を流れる神田川の源、井之頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴をとどろかせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられています。
江戸時代、当寺の本尊は難病にご利益のある薬師如来として信仰あるく、護摩の煙が絶えなかったといわれています。戦時中の供出で今はなくなってしまった寛保2年(1742)銘の梵鐘にも「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と記されていました。なお現在の梵鐘は、昭和29年に造られたもので、区内では最も大きいものです。
当寺に伝わる文化財としては、室町期に作られたといわれる興教大師像、文明2年(1470)銘・明応5年(1496)銘の板碑のほか、江戸時代の庚申塔・供養塔など多数が所蔵されています。
また、当寺は明治初年に廃寺となった宝仙寺末の慈冠山日照寺(杉並区永福1-34)を合併しています。(杉並区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による龍光寺の縁起
龍光寺
除地、1萬坪。村の北の方によれり。新義真言宗、郡中中野村宝仙寺の末、泉涌山医王院と称す。
客殿8間に6間半、巽向なり。本尊薬師木の坐像にて長4尺、開山開基を傳ず。
鐘楼。9尺四方の棲なり。鐘の大さ径2尺3寸、寛保2年の銘刻せり。
阿弥陀堂。客殿より南の方にあり。4間に3間東向。弥陀は木の立像にて長4尺許。
弁天祠。境内の入口なり。2間に1間半なり。(新編武蔵風土記稿より)
「杉並の寺院」による龍光寺の縁起
寺伝によると、開山竜観は明応二年寂、二世智観が大永三年寂であることから、室町中期開創の古い寺であることが分かる。但し「新編武蔵」は、開山開基について何等の記載もしていない。
なお、当寺は、明治初年に廃寺となった同じ宝仙寺末の日照寺を合併している。(「杉並の寺院」より)
合併した日照寺について
日照寺
除地、1町。村の西境にあり。新義真言宗、郡中中野村宝仙寺末、慈冠山浄光院と称す。
客殿6間に4間、南向なり。本尊聖観音木の立像にて長2尺許り、開山開基詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)
龍光寺所蔵の文化財
- 文明二年銘・明応五年銘等板碑三基
- 元禄一四年銘石造庚申供養塔
- 宝永七年銘石造光明真言供養塔
- 享保五年銘石造地蔵菩薩立像
- 享保一〇・同一一年銘石造六十六部廻国供養塔
- 寛保二年銘梵鐘
- 天保九年銘石造青面金剛立像
龍光寺の周辺図