宿鳳山高円寺|地名高円寺由来寺院
高円寺の概要
曹洞宗寺院の高円寺は、宿鳳山と号します。高円寺は、弘治元年(1555)中野成願寺3世建室宗正が開山しました。中興開基第5世耕岳益道は、徳川家光との知遇を得ており、耕岳益道に感銘を受けた徳川家光の命により、小沢村と呼ばれていた当村は高円寺村と改められました。
山号 | 宿鳳山 |
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院号 | - |
寺号 | 高円寺 |
住所 | 杉並区高円寺南4-18-11 |
本尊 | 木造聖観音菩薩立像 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 地名高円寺由来の寺院 |
高円寺の縁起
高円寺は、弘治元年(1555)中野成願寺3世建室宗正が開山しました。中興開基第5世耕岳益道は、徳川家光との知遇を得ており、耕岳益道に感銘を受けた徳川家光の命により、小沢村と呼ばれていた当村は高円寺村と改められました。
杉並区教育委員会掲示による高円寺の縁起
宿鳳山高円寺は、弘治元年(1555)中野成願寺3世建室宗正によって開山された曹洞宗の寺です。本尊は観音菩薩像で、室町期の作と伝えられる阿弥陀如来坐像も安置されています。
かつてこの地は、周辺に桃の木が多くあったことから桃園と称され、本尊は桃園観音、寺は桃堂の名で呼ばれていました。 当寺が広くその名を知られるようになったのは、第5世耕岳益道の時、三代将軍徳川家光の知遇を得たことによります。現本堂裏の高台が「御殿跡」と呼ばれるのは、家光が遊猟のおり当寺に立ち寄り休息した茶室跡に由来するといわれ、付近には「御殿前」の名称が残りました。境内にある茶園の名残も家光の寄進と伝えられます。また、それまで小沢村と呼ばれた村名を寺名をとって高円寺村と改めさせたのも家光といわれています。
当寺は今日まで寛保2年(1742)、弘化4年(1847)、明治33年、昭和20年と4度も罹災し、堂舎と共に古記録類の多くを焼失しました。現在の本堂は昭和28年に建立したものです。(杉並区教育委員会掲示より)
「杉並の寺院」による高円寺の縁起
開創後、第5世耕岳益道は、徳川3代将軍家光の知遇を得、江戸城へしばしば法話に伺候し、また家光も遠乗り・鷹狩りなどの折に当寺の茶室で休息したという。ある時家光が耕岳和尚に願いを尋ねたところ、和尚は寺領などを望まず、ただ茶の木を所望した高潔さに感銘し、早速宇治より茶の木を取り寄せて当寺に寄進したと伝える。
家光が休息したとされる茶室跡は、現本堂裏に「御殿山」として名称ばかりが残っており、またかつては家光手植えのもちの木もあったという。
従来小沢村とよばれていた当村を、高円寺村と改称させたのも家光であったと伝える。(「杉並の寺院」より)
新編武蔵風土記稿による高円寺の縁起
(高円寺村)高円寺
除地、一町八段六畝十歩、村の中央より西によりてあり、宿鳳山と号す。禅宗曹洞派にて、同郡本郷村成願寺末、当寺昔は堂宇もいと廣くして、間口廿一間ありしと云、今はをとろへて客殿七間に四間なり。南向、本尊桃園観音を安ず。恵心の作、木の坐像にて長二尺五寸、開山を建室宗正と云、弘治三年八月廿六日示寂、中興を無倫と号す。開山より六世にあたれり。この無倫大猷院殿御念に叶ひ、しばしば伺候せり。ある御遊のとき、尊旨ありて願あらば申すべしとのたまひしに、桑門の身外に望なし、性来茶を好みはべれば茶を賜ふべきよし、望申せしにより、宇治より茶の木を召れて、此境内へうえさせたまへり。此僧高徳の人にて本山より中興の称をゆるされしと云。其後寛保年中祝融の災にかかり、堂宇ことごとく烏有せしを、永住の僧近郷を勧辿して、宝暦十三年再興の業を企て、明和二年に至て成就せり、今の客殿は其時の造立なり。境内今に茶の木多し、是事寺の古く記銭せしものに見えたり。
御殿跡。本堂の背後にあり。高さ六尺許に廣さは三間四方なり。大猷院殿しばしば御遊ありし時、御茶屋のありし迹なりと云、又本堂の庭にもちの木一株あり。御手づから植させたまふ所なりと。幹は枯てうろになりたれど、尚皮のみ残りてわづかに枝葉を生ぜり、高さ一丈許り。
御嶽祠。東向の隅にあり、境内の鎮守なり。一間四方の祠にて、西向き。(新編武蔵風土記稿より)
高円寺の周辺図