成願寺|中野区本町にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

多宝山成願寺|中野長者鈴木九郎の伝承、東京三十三観音霊場

成願寺の概要

曹洞宗寺院の成願寺は、多宝山と号し、永享10年(1438)小田原最乗寺第5世春屋宗能禅師の教えを受けた中野長者の鈴木九郎が出家して、西新宿の十二社(現、西新宿熊野神社)の敷地内に創建しました。中世には正観寺と称していましたが、江戸時代初期に長者屋敷跡(当地)へ移転し、成願寺と改称しました。天正19年(1591年)に徳川家康により武蔵太田庄成田に5石の寺領寄進を受け、四代将軍家綱以降5石の朱印状を受けた御朱印寺でした。東京三十三観音霊場18番札所です。

成願寺
成願寺の概要
山号 多宝山
院号 -
寺号 成願寺
住所 中野区本町2-26-6
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 中野たから幼稚園



成願寺の縁起

成願寺は、永享10年(1438)小田原最乗寺第5世春屋宗能禅師の教えを受けた中野長者の鈴木九郎が出家して、西新宿の十二社(現、西新宿熊野神社)の敷地内に創建しました。中世には正観寺と称していましたが、江戸時代初期に長者屋敷跡(当地)へ移転し、成願寺と改称しました。天正19年(1591年)に徳川家康により武蔵太田庄成田に5石の寺領寄進を受け、四代将軍家綱以降5石の朱印状を受けた御朱印寺でした。

成願寺と中野長者の伝承

およそ600年昔の応永年間、この地に鈴木九郎という人が住み着きました。あたりは見渡すかぎりのススキの原っぱでした。九郎は荒れた土地をすこしずつひらきながら田を造り馬を育てていました。ですが食べ物のない日もある、貧しい暮らしでした。
ある日、九郎はやせた馬を1頭つれて千葉の方の馬市へ出かけました。
その途中、浅草の観音さま(浅草寺)にお詣りをしてこんなお願いをしました。
「どうか観音さま、馬がよい値で売れますように。この馬が売れて、そのお金のなかに大観通宝がまさっていたら、それはぜんぶ観音さまにさしあげます。」
さて、そうして馬市に行くと、馬は思ったよりずいぶん高く売れました。
「これは観音さまのおかげじゃ」
九郎は大喜び。ところが受け取ったお金を見てみると、みんな大観通宝だったのです。
「これは困った。大観通宝はみんな観音さまにさしあげるといってしまった・・・それでは1銭も残らない」
さんざん迷った九郎ですがついに決心しました。
「やはり約束は守らなければならない。馬が高く売れる事だけ願った自分がいけなかった。お金はしっかり働いて手に入れなければならないと観音さまが教えてくださったのだろう」
翌日から九郎は今まで以上に働いて財をなし、多くの人々も慕い集まって、中野長者とよばれるようになりました。
しかし思わぬ不幸がやってきます。一人娘の小笹が、病気で亡くなってしまったのです。九郎夫妻の悲しみはたいへんなものでした。東西の社寺でお祈りをし、南北の偉い人を尋ねましたが心は晴れません。
永享10年(1438)小田原の最乗寺に参拝、5世春屋宗能禅師の励ましによって九郎は、十ニ社の敷地に御堂を建てて禅師一行を招き、小笹の供養と曹洞禅の普及に精進しました。これが成願寺のはじまりです。(以下省略)(成願寺案内より)

成願寺のもと末寺




成願寺所蔵の文化財

  • 鈴木九郎長者墓(東京都指定文化財)
  • 鍋島地蔵(中野区指定文化財)

鍋島家の墓所

この成願寺には、蓮池鍋島家の墓所があります。中野在来の寺院で大名家の墓所があるのはここだけです。
蓮池(佐賀市東部)の鍋島家は、直澄が寛永16年(1639)5万2600石を与えられ分家したのに始まります。
墓域に入ると10基の墓石が立ち並んでいます。手前の自然石が4代藩主・直恒の供養碑、3番目の四角いのが墓石です。銘文によれば、直恒は、寛延2年(1749)に麻布龍土町の藩邸で病死し、衾村(目黒区)に葬られましたが、のちその墓は成願寺に移されました。
他の8基の墓は、2代直之・8代直与・9代直紀の子供達のものです。
また墓地の右手の奥に鍋島地蔵と呼ばれる地蔵姿の墓碑があり「真如院殿一幻妙覚童女之霊」の法名が刻まれています。(中野区教育委員会境内掲示より)

成願寺の周辺図