西照寺|杉並区高円寺南にある曹洞宗寺院

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普明山西照寺|天正2年日比谷に開創、西方三十三所観音

西照寺の概要

曹洞宗寺院の西照寺は、普明山と号し、天正2年(1574)開山文竜和尚が日比谷に開創したと伝えられています。慶長17年(1612)芝金杉へ移転、寛文5年(1665)に至って芝白金台町へ移転しました。もと戸塚徳翁寺末で、明治44年当地へ移転しています。(現在活動していませんが)西方三十三所観音26番でした。

西照寺
西照寺の概要
山号 普明山
院号 -
寺号 西照寺
住所 杉並区高円寺南2-29-3
本尊 木造聖観音菩薩立像
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



西照寺の縁起

西照寺は、天正2年(1574)開山文竜和尚が日比谷に開創したと伝えられています。慶長17年(1612)芝金杉へ移転、寛文5年(1665)に至って芝白金台町へ移転しました。もと戸塚徳翁寺末で、明治44年当地へ移転しています。

杉並区教育委員会掲示による西照寺の縁起

当寺は普明山と号する曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦如来坐像です。寺伝によれば、日比谷村の漁夫が海中より拾い上げた阿弥陀如来を安置した御堂を、天正2年(1574)開山文竜和尚が一寺としたのが開創と伝えられています。
その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大築営のため、寺域は武家屋敷地となり、慶長17年(1612)芝金杉(現港区芝1丁目)に移転しました。しかし寛永20年類焼にあい寺地は御用地となり、拝領した替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、寛文5年(1665)に至って芝白金台町(現港区白金2丁目)高原寺持ちの地を買収して移り、寺を再興しました。 この再興に力あったのが中興開基岡田豊前守善政で、以来当寺は代々岡田家の菩提所となっています。この後、当寺は観音堂・鐘楼堂等の堂宇も整え、江戸西方三十三観音の第26番札所ともなり、門前には町矢が並び大いに賑わったといわれます。
慶応3年(1867)、当寺は倒幕派の放火によって伽藍を全焼しましたが、明治10年頃には復興しています。この再建された堂舎には明治20年、明治学院に入学した島崎藤村が寄宿していたということです。
永く御府内にあった当寺も、東京発展のなかで寺域が区画整理の対象となり、明治44年現在の地に移転しました。
なお、当寺には室町時代末期の阿弥陀如来坐像、承応2年(1653)銘のとろけ地蔵、南町奉行所山村良旺や書家佐瀬得所の墓、江戸期建築の格式を持つ道了堂、心越禅師の山門額字書幅など多くの文化財が所蔵されています。(杉並区教育委員会掲示より)

「杉並の寺院」による西照寺の縁起

開山明堂文竜が巡錫の折に江戸日比谷に至り、漁夫が海中より得た阿弥陀如来坐像を安置した御堂を西照寺としたのが開創と伝える。その時期を、「明細帳」は天正2年(1574)とし、「続備考」は10年前後としているが、決定する確証はない。
芝白金時代の伽藍は、明治元年(1868)官軍の宿舎とされた際に失火(一説には官軍を狙った放火とも)で焼け、その後再建された堂塔には、明治学院の講師をしていた頃の島崎藤村が寄宿していたという。(「杉並の寺院」より)


西照寺所蔵の文化財

  • 道了堂(杉並区登録文化財)
  • 承応2年(1653)銘石造地蔵菩薩立像(とろけ地蔵)
  • 室町時代末期の阿弥陀如来坐像
  • 南町奉行所山村良旺墓
  • 書物奉行小林政灼の墓
  • 書家佐瀬得所の墓
  • 書家林松山の墓

西照寺の周辺図