称光山華徳院|江戸三閻魔、昭和4年当地へ移転
華徳院の概要
天台宗寺院の華徳院は、称光山長延寺と号し、下野国佐野に創建されました。天正年間に武蔵国霞ヶ関に移転、慶長年間に浅草蔵前に再転し、寛永寺末となりました。江戸時代には、新宿太宗寺、巣鴨善養寺とともに江戸三閻魔として有名でした。寛永3年大寺格となり、翌年に院号を華徳院と改めています。大正時代の区画整理と、関東大震災により、昭和4年当地へ移転しました。現在の本尊は、千手院行元寺より移座したものです。
山号 | 称光山 |
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院号 | 華徳院 |
寺号 | 長延寺 |
住所 | 杉並区松ノ木3-32-11 |
本尊 | 閻魔王像 |
宗派 | 天台宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
華徳院の縁起
華徳院は、もと理正院と号し、下野国佐野に創建されました。天正年間に武蔵国霞ヶ関に移転、慶長年間に浅草蔵前に再転し、寛永寺末となりました。江戸時代には、新宿太宗寺、巣鴨善養寺とともに江戸三閻魔として有名で。寛永3年大寺格となり、翌年に院号を華徳院と改めています。大正時代の区画整理と、関東大震災により、昭和4年当地へ移転しました。現在の本尊は、千手院行元寺より移座したものです。
杉並区教育委員会掲示による華徳院の縁起
当寺は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔王像です。「文政寺社書上」によれば下野国佐野(現栃木県佐野市)の地に、天台座主第3世慈覚大師により開創され、理正院と称していました。
その後、武蔵国霞ヶ関(現千代田区)に寺地を拝領し、閻魔堂の別当となり、本尊を閻魔王としました。
寛保3年(1743)大寺格となり、延享年間(1744-1748)寺号を改め、大檀那堀丹後守直時(寛永20年1643年没)の法号に因み華徳院としました。
当寺の本堂には、運慶蘇生の作といわれた丈六仏の本尊・閻魔王像を中に、右には本尊と同木でやはり運慶の作といわれた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祀られ、「蔵前の閻魔堂」と呼ばれていました。また、「江戸三閻魔」の一つにも数えられ、地獄の釜の蓋もあくといわれた正月と7月の16日の大斉日には参詣人で大いに賑わったといわれています。
しかし大正12年の関東大震災によりこれら仏像も伽藍とともに焼失してしまい、その跡には日光輪王寺より閻魔王を迎え、境外堂としてお堂が建てられました。
伽藍は大正2年より区画整理のために墓地を現在地に移していたことから、移転先を現在地と定め、昭和3年本堂を再建し、牛込千手院行元寺の閻魔王像を本尊として迎えました。
蔵前のお堂は昭和20年の戦火により焼失しましたが、閻魔王像は焼失を免れ、当寺に安置されています。(杉並区教育委員会掲示より)
御府内寺社備考による華徳院の縁起
上野東叡山末 浅草天王町
称光山長延寺華徳院、古跡拝領地719坪8合3勺外ニ御料地表門通77坪8合5勺7才
当寺元下野国佐野の辺に在之。天台第2祖慈覚大師之開基にして其後世代不詳年号不知。武蔵国霞ヶ関に移り、慶長年中今の浅草の地に移し、閻王の別当と相成候よし書留相見申候。往古理正院と申候処、寛保3年寺格大寺に引直し被、仰付、延享年中理正院を改、華徳院と相唱可申旨被、仰付候。尤華徳院の号ハ堀丹後守殿法号ニ御座候。
第1世大僧都永奝文禄元年月不知三日寂。
第2世円奝慶長13年5月8日寂。
本堂6間四方。本尊閻魔王丈六之座像、運慶蘇生之作。右者鎌倉において開眼供養し終て或夜夢の告ありて武蔵国都川の辺りに移すへしと示現を蒙り、則此所に安置す。然といへとも年月相知不申候。外に陀弥の小像を安置す。
姥堂2間四方。三途川姥1体丈5勺5寸立像、閻王と同木同作。聖徳太子御像。正観音。(以下省略)(御府内寺社備考)
華徳院の周辺図