霞関山太宗寺|江戸六地蔵、江戸三閻魔、新宿山之手七福神の布袋尊
太宗寺の概要
浄土宗寺院の太宗寺は、霞関山本覚院と号します。太宗寺は、1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた太宗庵を始まりとします。念譽故心學玄大徳(慶長2年1597年寂)が開山、本蓮社覺譽理徹和尚の代に一寺となしたことから中興開山だといいます。徳川家の家臣内藤正勝が開基となり、内藤大和守重頼より寺地の寄進を受けて大寺となったといいます。江戸六地蔵の3番地蔵、江戸三閻魔の閻魔王像、新宿山之手七福神の布袋尊が安置されています。
山号 | 霞関山 |
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院号 | 本覚院 |
寺号 | 太宗寺 |
住所 | 新宿区新宿2-9-2 |
宗派 | 浄土宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 江戸六地蔵の3番地蔵、江戸三閻魔の閻魔王像、新宿山之手七福神の布袋尊 |
太宗寺の縁起
太宗寺は、1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた太宗庵を始まりとします。念譽故心學玄大徳(慶長2年1597年寂)が開山、本蓮社覺譽理徹和尚の代に一寺となしたことから中興開山だといいます。徳川家の家臣内藤正勝が開基となり、内藤大和守重頼より寺地の寄進を受けて大寺となったといいます。
「四谷區史」による太宗寺の縁起
内藤新宿にある芝増上寺末の浄土宗霞關山本覺院太宗寺は境内古跡拝領地七千三百九十六坪餘を有した巨刹である。起立は徳川氏關東入國直後、内藤清成が賜地當時、太宗と稱した僧があつて、此處に小庵を結んでゐた爲に、誰呼ぶとなく太宗が庵と云つたといふ、其後内藤清政同正勝の墓の酒掃などを勤め、やがて小寺の形となり、太宗寺と稱するに至つたが、内藤重賴が地所を寄附するに及んで大寺と成つた。
開山は念譽故心學玄大徳で、慶長二年十一月七日に遷化した、事蹟は不明とのことであるが、文政書上に「但し太宗与申菴主は此人にて全別人にて無之、別號のごとく世人の申ふらしに可有御座哉」と記してゐる。二代目中興本蓮社覺譽理徹和尚は庵室を一寺に取立てた時の住持であつたから中興と唱へる、慶安四年十二月六日に遷化したが、事蹟は詳かでない。開基内藤大和守重賴は元禄三年十一月二十七日に卒し、法名を無着院殿然譽常光存空と號した。重賴の事績は本史の所々に見える。
この寺には有名な閻魔像があつて、一丈八尺とあるから、蔵前華徳院の丈六の像に勝ること二尺であつて、江戸第一の巨像である。弘化中眼球が水晶であるといふのを信じ、密かに片目を抜取つた者があつたので、更に著名になつた。また大金銅地蔵は江戸六地蔵の随一で、寶永中の建立である。
門前町屋は總坪千二百五十坪、表門前、東北方、西北方と三箇所にあつた。寛永二年の免許で元禄中まで追々に出来し、古門前町屋で年季切替はなかつたこと門前地の條に記す如くである。(「四谷區史」より)
「太宗寺縁起」による太宗寺の縁起
浄土宗・太宗寺は1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた、「太宗庵」を始まりとします。
太宗の立派な行状と人柄から、近住の人々から「太宗庵の聖」と呼ばれ親しまれました。
その風聞から、時の領主の徳川家重臣・内藤正勝公(内藤家5代)の厚い信望を得るようになり、いつしかその名の誉を高めるところとなりました。
寛永6年、正勝公の逝去の際、葬儀万端を取り仕切った太宗庵主は以降、内藤家との仏縁を一層深めることとなり、寛文8年、内藤家8代・重頼公より寺領として、7396坪の寄進を受け、さらに庵の規模を拡大して寺門に変え、寺号には庵主の名を冠して「太宗寺」とするに至りました。
また当寺、大木戸一帯の地が、霞ヶ関と称されていたので「霞関山」を山号にし、尊信者・正勝公の法名「本覚院」を院号に拝受し、「霞関山・本覚院・太宗寺」として誕生しました。
以降、太宗寺は仏道を介し、地元の人々と内藤家ともどもつつがなく永い時を刻みました。(太宗寺縁起より)
太宗寺所蔵の文化財
太宗寺には東京都指定有形文化財の銅造地蔵菩薩坐像をはじめ、数多くの文化財があります。
- 銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定有形文化財)
- 閻魔大王像(新宿区指定有形文化財)
- 奪衣婆像(新宿区指定有形文化財)
- 三日月不動尊(新宿区指定有形文化財)
- 内藤家墓所(新宿区指定有形文化財)
- 観無量寿経曼荼羅(新宿区指定有形文化財)
- 内藤家墓所出土品(新宿区指定有形文化財)
- 布袋尊像
- 切支丹燈籠(新宿区登録有形文化財)
- 太宗寺の曼荼羅
銅造地蔵菩薩坐像(東京都指定昭和45年8月3日)
江戸時代の前期に、江戸に出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつです。
銅造で像高は267cm、正徳2年(1712)9月に「江戸六地蔵」の三番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。
なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
「江戸六地蔵」は深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は72,000名以上におよんでいました。
この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。
品川寺、品川区南品川3-5-17、宝永5年(1708)造立
東禅寺、台東区東浅草2-12-13、宝永7年(1710)造立
真性寺、豊島区巣鴨3-21-21、正徳4年(1714)造立
霊巌寺、江東区白河1-3-32、享保2年(1717)造立
永代寺、江東区富岡1-15-1、享保5年(1720)造立
(新宿区教育委員会掲示)
観無量寿経曼荼羅(新宿区指定平成2年6月1日)
通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼羅を同寸大に模写したものです。
神に描かれており、総高425cm、全幅408cmの掛軸となっています。画像は立て・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたものです。
製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。(新宿区教育委員会掲示)
三日月不動像(新宿区指定昭和59年11月2日)
額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。
銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。
寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。
なお、額上の三日月は「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上の屋根には窓が取り付けられ、空を望むことができます。(新宿区教育委員会掲示)
新宿山之手七福神、布袋尊像
新宿山之手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺(布袋尊)、鬼王神社(恵比寿神)、永福寺(福禄寿)、抜弁天厳島神社(弁財天)、法善寺(寿老人)、経王寺(大黒天)、善国寺(毘沙門天)の七ヶ所となっています。
布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。(新宿区教育委員会掲示)
太宗寺の周辺図