明星山医王寺|廃仏毀釈により廃寺となったものの大正末期に再興
医王寺の概要
真言宗智山派寺院の医王寺は、明星山遍照院と号します。医王寺は、弘法大師が箱根山中で彫った薬師像を開山海星が拝受して高井戸に建てた小堂が草創と伝えられます。明治維新の廃仏毀釈により廃寺となったものの、大正末期に再興したといいます。
山号 | 明星山 |
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院号 | 遍照院 |
寺号 | 医王寺 |
住所 | 杉並区上高井戸1-27-15 |
本尊 | 木造薬師如来坐像 |
宗派 | 真言宗智山派 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
医王寺の縁起
医王寺は、弘法大師が箱根山中で彫った薬師像を開山海星が拝受して高井戸に建てた小堂が草創と伝えられます。明治維新の廃仏毀釈により廃寺となったものの、大正末期に再興したといいます。
杉並区教育委員会掲示による医王寺の縁起
この寺は明星山遍照院医王寺といいます。寺伝によると、承和元年(八三四)弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したといわれています。また本堂は西に向いており、一名西向茅野薬師ともいわれます。
墓地から出た板碑の中に、文和五年(一三五六)と応永七年(一四〇〇)のものなどがあり、開山の古さを物語っています。
江戸時代以後、この寺が「おめだま薬師」「眼病にきく薬師様」といわれ、寺の境内に毎月十二日、「おめだま薬師大護摩供」が修行されて参詣者でにぎわっています。また旧境内の薬師の池は湧水であったので渇水することがなく、また眼病平癒のため放した魚が一眼になるという伝説があります。
明治の初め廃寺になりましたが、本堂は高井戸学校の前身であった高泉学校の仮校舎として使用されました。薬師堂だけは関東大震災の大正十二年(一九二三)まで、現在地より南側の甲州街道に面したところに残っていました。その後大正十三年、今の場所に再興しました。(杉並区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による医王寺の縁起
(上高井戸宿)医王寺
除地一段、村の南よりにて街道の北側にあり、新義真言宗、豊嶋郡石神井村三寳寺末、明星山と称す、客殿七間半に五間半南向なり、本尊大日は長九寸許、開山法印尊祐寛永五年五月十九日寂せり。
薬師堂。客殿に向て右にあり、三間四方西向なり、薬師は長一尺二寸許り。(新編武蔵風土記稿より)
「杉並区の寺院」による医王寺の縁起
寺伝によると、弘法大師が箱根山中で彫った薬師像を開山海星が拝受して高井戸の地に来り、小堂を建てたのが開創と伝える。しかし、「新編武蔵」上高井戸村医王寺の項は開山を尊祐としており、それ以前の歴史は不詳である。
江戸時代の当寺は、本堂は南面し、本尊は「大日如来」で、薬師堂が西面して「薬師如来」が安置されていた。このお薬師様は眼病に大変霊験があらたかだった為、近隣・近郷の人々から信仰を集めた。ところが、明治初年廃仏毀釈令により廃寺となり、本寺「三宝寺」に合併された。本堂は高泉小学校の仮校舎となり、近隣住民の強い要望で「薬師堂」を残し、毎月十二日の縁日には「おめだま」「おめだま薬師」といわれた行事が昭和二〇年終戦の年まで毎月続けられた。大正一二年の震災後「薬師堂」は倒壊したが、無事であった薬師像を奉じた檀徒が再興を企てて三宝寺三三世融憲を招請し、大正一四年に伽藍が再興され、昭和一七年には寺名も復した(大正一四年当時は寺院新設禁止中のため別名を用いた)。そして「おめだま薬師」法会も復活し、現在も毎年一〇月一二日に行われている。また、眼病平癒祈願のために、この池に魚を放生すると魚が片目になるという「薬師の池」も残されている。(「杉並区の寺院」より)
医王寺所蔵の文化財
- 木造薬師如来坐像(通称「西向薬師」、南北朝期、区登録文化財)
- 木造阿弥陀如来立像(江戸期)
- 石造釈迦三尊立像(随開皇八年銘、檀家の寄進)
医王寺の周辺図