長廣山立法寺|秋里氏が開基、大正8年当地へ移転
立法寺の概要
日蓮宗寺院の立法寺は、長廣山と号します。立法寺は、長廣院日立上人を開山、秋里氏が開基となり、永正3年(1506)赤坂に創建、その後青山権田原(元赤坂)への移転を経て、元文2年(1732)当寺七世境妙院日性上人の代に千駄ヶ谷村(現国立競技場内)へ移転、明治神宮外苑造営に伴い寺地を接収されて大正8年当地へ移転したといいます。
山号 | 長廣山 |
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院号 | - |
寺号 | 立法寺 |
住所 | 杉並区和田2-16-13 |
本尊 | 一塔両尊四士 |
宗派 | 日蓮宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | - |
立法寺の縁起
立法寺は、長廣院日立上人を開山、秋里氏が開基となり、永正3年(1506)赤坂に創建、その後青山権田原(元赤坂)への移転を経て、元文2年(1732)当寺七世境妙院日性上人の代に千駄ヶ谷村(現国立競技場内)へ移転、明治神宮外苑造営に伴い寺地を接収されて大正8年当地へ移転したといいます。
杉並区教育委員会掲示による立法寺の縁起
当寺は、長廣山立法寺と号する日蓮宗の寺院で、本尊は一塔両尊四士です。
寺伝によると、永正三年(一五〇六)、長廣院日立上人を開山、秋里氏を開基とし、赤坂(現港区)に開創され、その後、青山権田原(現港区元赤坂)に移転したと伝わります。ただし「文政寺社書上」には、寛永八年(一六三一)、立法院日了上人により青山権田原甲賀町(現港区元赤坂)に開創されたと記されています。
元文二年(一七三二)、千駄ヶ谷村名主太十郎の先祖弥次右衛門より土地を寄進され、当寺七世境妙院日性上人の代に千駄ヶ谷村(現国立競技場内)へ移転しました。安政二年(一八五五)の火災により堂宇を焼失しましたが、明治初年に再建されました。
大正八年(一九一九)に明治神宮外苑造営のため、現在地に移転しました。その後、昭和五十六年(一九八一)、宗祖七百遠忌の際、本堂、客殿、庫裏を新築、平成十五年(二〇〇三)、立教開宗七百五十年・開創五百年の記念事業として鳳凰門(仁王門)と宝塔を建立しました。
当寺に安置されている日蓮上人像は、文永十一年(一二七四)、日蓮上人が佐渡流刑を赦され島から離れる際、佐渡の信者のために自作した木坐像で、「感応の高祖日蓮大菩薩」と呼ばれたと、木坐像の「略縁起」(明和三年一七六六年四月)に記されています。
境内には、葛飾北斎の門人であった浮世絵師・魚屋北渓(嘉永三年一八五〇没)の墓があります。(杉並区教育委員会掲示より)
「杉並の寺院」による立法寺の縁起
永正三年の創建であり、開山は長廣院日立、開基檀越は秋里氏である。ただし「続備考」によれば、寛永八年、立法院日了の再興となっている。
もと江戸赤坂に開創されたのち、寛永八年に青山権田原に移転して堂宇が建立された。その後元文二年千駄ヶ谷に移転し、安政二年の大火で焼失するが、明治初年に再建をみた。大正八年に明治神宮外苑域内となったため、現在地へ移転した。現本堂は七百遠忌報恩浄業として新築された。
本尊勧請様式は一塔両尊四士、合掌印であり、祖像は新たに遠忌事業のひとつとして等身大の姿を安置した。
境内には浮世絵師魚屋北渓の墓がある。(「杉並の寺院」より)
「四谷區史」による立法寺の縁起
長廣山立法寺は、境妙寺と同しく元の千駄谷、今の四谷霞岳町に在つた日蓮宗で小湊誕生寺の末寺である。境内年貢地九百拾壹坪、寛永八年辛巳青山権田原甲賀町に草庵を結んだのが起立であつて、元地は二百六十六坪と傳へられた。開基は立法院遵生日了と呼ぶが遷化の年月は明かでない。元文二年丁巳千駄谷村の名主彌次右衛門から三反十一歩の土地寄進を受けて此地に移つた、引地中興の開基は境妙院日性で、延享元甲子年九月十四日に遷化した。(「四谷區史」より)
「渋谷区史」による立法寺の縁起
立法寺(千駄ヶ谷)
日蓮宗、山号を長広山という。房州小湊誕生寺末。寛永八年、立法院日了が、草庵を青山権田原甲賀町に結んだのが起源で、元文二年境妙院日性が千駄ケ谷に移して一寺とした。本尊三宝祖師。(「渋谷区史」より)
立法寺所蔵の文化財
- 浮世絵師魚屋北渓の墓
立法寺の周辺図