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徳ノ山稲荷神社|墨田区石原の神社

徳ノ山稲荷神社の概要

徳ノ山稲荷神社は、墨田区石原にある稲荷神社です。徳ノ山稲荷神社は、本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡である当地に祀った稲荷神を創祀とし、徳山五兵衛の死後、彼の功績を称えて御霊を合祀し、徳ノ山稲荷神社としたといいます。侠骨剣豪の日本左衛門を徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがないというので、処刑する前に日光参拝を許したということで、徳山五兵衛の人柄が偲ばれます。

徳ノ山稲荷神社
徳ノ山稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 倉稲魂命、徳山五兵衛公
相殿 -
境内社 -
住所 墨田区石原1-36-10
祭日 徳ノ山まつり2月19日
備考 徳山五兵衛屋敷跡、日本左衛門首洗い井戸跡之碑



徳ノ山稲荷神社の由緒

徳ノ山稲荷神社は、本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡である当地に祀った稲荷神を創祀とし、徳山五兵衛の死後、彼の功績を称えて御霊を合祀し、徳ノ山稲荷神社としたといいます。当地には、日本左衛門首洗い井戸跡、石碑が残されています。侠骨剣豪の日本左衛門を徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことを尋ねると、日光を見たことがないというので、処刑する前に日光参拝を許したということで、徳山五兵衛の人柄が偲ばれます。

境内掲示による徳ノ山稲荷神社の由緒

当石原町は本所では最も古い存在である。
鎌倉時代には墨田河原石原郷といふ村落をなして居たといはれる。明暦の大火には江戸市中を灰にしたが、その結果幕府は市街の区画整理を大規模に行った本所の地はおおむね低湿地の田園で芝野茅原芦葭生茂りここを埋立てて河川を整備して排水をはかり土地を一面に整へたうえ道路を設けそこに大旗本など武家屋敷を主にして移転が行われたのである。この事業の推進者は徳山五兵衛重政山崎四郎左衛門重政の両名の本所築地奉行であった。
万冶三年三月 徳山五兵衛、山崎四郎左衛門
右本庄屋敷割並御堀堀之奉行被仰付、
右本庄之築地奉行被仰付
右本所地区開拓を直接担当した人として本所区の祖先である徳山五兵衛重政治は慶長十九年駿河に生れた。寛永八年九月御書院番勤め駿河御城番を四度に亘って勤め城内外修理奉行を勤め正保二年慶安四年明暦元年の三度上使として各地に趣いたのち万冶三年本所築地奉行に任ぜられ以後本所御用を勤める事十二年に及び寛文十念五月十六日五十六歳で勘定奉行となり十二年に亘り天和元年三月二十九日に老年の為職を辞して其後家督を長子權十郎重俊に譲って隠居浄雲と号し、元禄人縁七十五歳で病没した。
法名は一心院殿徳岩浄雲居士である。
右の事は墨田区史政治史的沿革に記載してあります。墨東叢誌には本所で最古の石原と題して記載してあります。本所開発の大恩人である本所奉行の徳山五兵衛を祀った徳之山稲荷には他の町内守護神と趣きを異にして徳山氏の功績を記念してそれた酬ゆる為の建立であることが注目される。(境内掲示より)

東京都神社名鑑による徳ノ山稲荷神社の由緒

明暦の本社開拓奉行のひとり徳山五兵衛の屋敷内にあった稲荷社を、その後も、徳の山稲荷神社として、その土地の人びとが崇敬してきた。境内には歌舞伎で有名な日本左衛門の首洗井戸跡の碑がある。(東京都神社名鑑より)

「墨田区史」による徳ノ山稲荷神社の由緒

本所築地奉行徳山五兵衛重政の下屋敷内に祭られていたものである。重政は、山崎四郎左衛門と共に万治三年(一六六〇)築地奉行となり、初期の本所開拓に尽力した人で、寛文四年(一六六四)その功績によって、現在の社地を含む地を下屋敷として拝領している。この屋敷は、明治初年には陸奥磐城平県(福島県内)知事安藤対馬守信行(明治四年没)の持地であったらしく(明治四辛未年改正東京大絵図による)、その後分割された。
稲荷社は、分割後もそのまま残されて徳山稲荷と称されるようになり、後に重政の功績を永く記念するために重政も合わせ祭っている。
境内には「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」がある。日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい、元文・永享年間(一七三六-四七)に横行した大盗賊で、延享四年(一七四七)に処刑されているが、その捜査に当たったのが、当時火付盗賊改の役にあった徳山五兵衛秀栄(重政の孫)である。稲荷社は、一説にこの秀栄が祭ったものともいわれている。また、境内には日本左衛門の供養碑や首洗い井戸があったと伝えられているが、後に河竹黙阿弥や歌舞伎狂言「青砥稿花紅彩画(白浪五人男)」の中に、日本左衛門を模した日本駄右衛門を登場させたこともあずかって、後世に造立されたものであろう。(「墨田区史」より)


徳ノ山稲荷神社所蔵の文化財

  • 徳山五兵衛屋敷跡
  • 日本左衛門首洗い井戸跡之碑

徳山五兵衛屋敷跡

江戸の初期に本所・深川の開発事業を推進した本所築地奉行徳山五兵衛重政の屋敷跡です。
開府当寺の江戸は、明暦3年(1657)の大火をはじめ、たびたびの火災で大きな被害を受けたので、幕府は街区の整備を大規模に行うことにしました。ことに隅田川以東の開拓に着手することになり、竪川や横川などを掘り、その泥土で湿地を埋め立て、道路の整備と市街地の造成をしました。この事業のため万冶3年(1660)に徳山五兵衛と山崎四郎左衛門の二人が初代の本所築地奉行として任命されました。
徳山五兵衛は功により、幕府からこのあたりに邸地を与えられました。この稲荷社は屋敷神としてまつられていましたが、五兵衛の死後、その徳を称えた人々により御霊が合祀され、徳之山稲荷神社として大切にされてきました。(墨田区教育委員会掲示より)

徳山五兵衛屋敷跡

明暦の大火後、幕府は本格的な本所の開発に乗り出します。万冶三年(1660)、本所築地奉行に任命された一人が徳山五兵衛(重政)です(もう一人が山崎四郎左衛門)。
堀割の開拓や湿地の埋め立て、道路整備と市街地の造成などで、今の本所の基礎を作り上げました。その功績により、この地に屋敷を賜りました。
五兵衛の死後、屋敷内に祀られていた稲荷と五兵衛の御霊が合祀され、徳山稲荷神社となっています。
また、孫の徳山五兵衛(秀榮)は、火付盗賊改方の在任中、歌舞伎の白波五人男の一人、日本駄衛門のモデルになった盗賊、日本左衛門らを捕えたことで有名です。(ぶらり両国街かど展実行委員会掲示より)

日本左衛門首洗い井戸跡之碑

日本左衛門ハ本名ヲ浜島庄兵衛ト称シ侠骨剣豪ノ士トシテ時ノ悪代官ヲ斬リ遠州ヲ浪人シ江戸ニ出デ向島西方ニ居ヲ構ヘタ。幕府ハコノ罪ヲ以テ奉行ニ召捕リ方ヲ命ズ。彼ノ神出鬼没ニシテ剣豪ノタメ奉行ハ召捕方ヲ出来ズココニ幕府ハ本所築地奉行タル徳ノ山五兵衛ニ召捕方ヲ命ズ。ソノ前ニ日本左衛門ハ再三徳ノ山邸ニ現レタガ黙殺放逐ス。ソノ命ガ出テ向島ニテ捕ヘ、ココニオイテ処刑サル時ニ寛文七年(西暦1667年)捕ワレタ時五兵衛ハ日本左衛門ニコノ世ニ思ヒ残スコトハナイカト問ワレ彼ハ只一ツ日光ヲ見タコトガナイト申シタノデ不憫ニ思ヒ又他の罪ノナイタメ地内ノ戸崎氏ニ連行ヲ命ジ内々デ日光見物ノ願ヒヲ叶エテヤッタ。無事ニ戻リソノ功ニヨリ戸崎氏ハ今ノ石原町一ノ一西側三百坪ヲ五兵衛ヨリ拝領シ現在戸崎家ノ子孫ハコノ地ノ地主トシテ今モ下北沢ニ住ム。コノ碑ハ約三百年前由縁ノココに建立サレ大正大震災戦災等ノ災禍デ見ル影モナク損傷シ徳ノ山講員ハコノ史蹟ヲ後世ニ残スベクコノ石碑ヲ再建ス。
昭和四十年五月十九日 徳ノ山講、町内有志(境内石碑より)

徳ノ山稲荷神社の周辺図

古地図で見る徳ノ山稲荷神社

徳ノ山稲荷神社は、「御使番徳山五兵衛」屋敷地に「徳山稲荷」と記載されています。

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参考資料
  • 「墨田区史」
  • 東京都神社名鑑