旧安田庭園|墨田区横網の史跡

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旧安田庭園|笠間藩主本庄因幡守宗資旧下屋敷

旧安田庭園の概要

旧安田庭園は、墨田区横網にある名所史跡です。旧安田庭園と命名されている邸宅跡地は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資が下屋敷として元禄年間(1688-1703)に築造したと伝えられる、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園です。明治になって旧備前藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎が所有、る初代安田善次郎の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に東京市に寄付されたといいます。関東大震災により壊滅的な被害を受けたものの復元工事を行い、寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年より一般公開されています。

旧安田庭園の概要
名所旧跡名 旧安田庭園
住所 墨田区横網1-12-10
電話番号 -
みどころ 心字池、水門跡
休日 12/29~1/1
備考 -



旧安田庭園について

旧安田庭園と命名されている邸宅跡地は、常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資が下屋敷として元禄年間(1688-1703)に築造したと伝えられる、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園です。明治になって旧備前藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎が所有、る初代安田善次郎の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に東京市に寄付されたといいます。関東大震災により壊滅的な被害を受けたものの復元工事を行い、寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年より一般公開されています。

境内掲示による旧安田庭園の沿革

安田庭園の沿革
元禄年間(1688~1703)に、徳川5代将軍綱吉の生母である桂昌院の弟で、後の常陸笠間藩5万石の藩主、本庄因幡守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園を築造したと伝えられている。中央に「心」字をかたどった池を配し、かつては隅田川の水を引き入れ、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる潮入り池泉廻遊式庭園である。
明治になって旧備前藩主池田章政侯爵邸となり、明治24年には、安田財閥の創始者である初代安田善次郎の所有となった。安田翁の逝去後、故人の遺志により大正11年(1922)に家屋及び庭園は、東京市に寄付された。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災により壊滅的な被害を受けたが、残った地割り石組みを基にして復元工事が行われた。旧安田邸跡地は寄付者の名を冠して「旧安田庭園」と命名され、昭和2年(1927)に民間篤志家の寄付による和風庭園として都内初の一般公開となった。
昭和42年(1967)、東京都から墨田区に移管されたのを機に、全面的な改修工事を行い、昭和46年(1971)に新装開園し、現在に至っている。
明治時代の文献の中で記載されている姿を今日までよくとどめており、清澄庭園に匹敵する明治時代の代表的庭園の一つであることから、平成8年(1996)、東京都の「名勝」に指定された。(境内掲示より)


旧安田庭園内の文化財

  • 水門跡

水門跡

江戸時代にこの庭園が造成された折、墨田川から水を引き込み、潮の干満によって池の水位を上下させ、それとともに見え隠れする岩や護岸、浮沈する島等の景観変化を楽しむという技法がとられました。これは「潮入」と呼ばれるものです。
この水門は、潮入池の水位調整のために造られたものでしたが、昭和三十年代までの隅田川の水質環境の悪化や、出水対策のための堤防補強に伴って、昭和四十年頃には閉じられ、導水溝も埋められてしまいました。
潮入の池は、都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも採り入れられていましたが、現在でも目にすることができるのは、浜離宮のみとなりました。
墨田区では、潮入の再現を図るため、昭和四十六年に本園北側に約七百平方メートルの貯水槽(貯水量約八百トン)を地下に造り、池と貯水槽に水を移動させることにより、人工的に干満を表現する潮入を再現しました。
本園の水門は、現在では当初の機能を失ってはいますが、往時の姿をとどめる遺構として現状のまま保存されています。(墨田区掲示より)

旧安田庭園の周辺図