神向山東清寺|豊川稲荷尊天、身代わり不動尊、玉の井稲荷
東清寺の概要
曹洞宗寺院の東清寺は、神向山と号します。東清寺は、海本和尚が山梨県塩山に寛保元年(1741)創建したと伝えられます。大正4年(1915)頃に当地へ移転、「玉の井稲荷」として知られています。南葛八十八ヶ所霊場72番札所です。
山号 | 神向山 |
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院号 | - |
寺号 | 東清寺 |
住所 | 墨田区墨田3-10-2 |
宗派 | 曹洞宗 |
葬儀・墓地 | - |
備考 | 南葛八十八ヶ所霊場72番札所、墓苑新区域販売中 |
東清寺の縁起
東清寺は、海本和尚が山梨県塩山に寛保元年(1741)創建したと伝えられます。大正4年(1915)頃に当地へ移転、「玉の井稲荷」として知られています。
東清寺の縁起
東清寺(墨田三丁目一〇番二号)
寛保元年(一七四一)に海本和尚が創建したと伝えられ、山梨県塩山の地にあった。大正四年(一九一五)に、当時の寺島村開発を図って白髭橋から四ツ木橋に至る道路(通称大正道路)が建設されたが、これとほぼ同時期に現在地に移転し、道路建設の鍬川式には豊川稲荷を奉請して無事息災を祈願したという。
曹洞宗に属し、十一面観世音を本尊とするが、玉の井稲荷を併置していることから、「玉の井稲荷」の通称で呼ばれている。
玉の井稲荷は、永井荷風が、昭和初期に著した「濹東綺譚」の中で、次のように記している。
板橋の右手はすぐ角に馬肉屋のある田町で、辻の向側には曹洞宗東清寺と刻した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立ってゐる。わたくしはお雪のお話からこの稲荷の縁日は月の二日と二十日の両日である事や、縁日の晩は外ばかり娠で、路地の中は却て客足が少いところから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでゐる事などを思い出し、人込みに交って、まだ一度も参詣したことのない祠の方へ行って見た。(中略)人ごみの中を歩いて向側の路地の突当りにある稲荷に参詣した。こゝにも夜店がつづき、祠の横手の鞘広い空地は植木屋が一面に並べた薔薇や百合、夏菊などの鉢物に時ならぬ花壇をつくってゐる。
境内には、かつて白髪橋寄りの道路際に建てられていた大正道路開通記念碑が移設されている。(「墨田区史」より)
東清寺の周辺図