木母寺|墨田区堤通にある天台宗寺院

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梅柳山木母寺|平安時代中期創建、梅若寺

木母寺の概要

天台宗寺院の木母寺は、梅柳山墨田院と号し、平安時代中期の977年忠円阿闍梨の創建と伝えられ、能「隅田川」の梅若山王権現の舞台であることから梅若寺と古称します。寺号の木母寺は、梅の文字からつけられました。

木母寺
木母寺の概要
山号 梅柳山
院号 墨田院
寺号 木母寺
住所 墨田区堤通2-16-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 木母寺納骨堂「墨堤霊廟」を募集



木母寺の縁起

木母寺は、忠円阿闍梨が貞元元年(976)に創建したと伝えられます。天正18年(1590)家康によって、梅柳山の命名を得、慶長12年(1607)には、前関白近衛信尹が参詣の折に木母寺と改号しました。明治維新で一端廃寺となりましたが、明治21年、光円僧正が再興しました。

木母寺は山号を梅柳山といい、天台宗に属する墨東第一の名刹といえます。開山は忠円阿闍梨で、平安中期の貞元元年(976)であったと伝えられています。
古くは梅若寺といい、隅田院とも称しました。天正18年(1590)家康によって、梅柳山の命名を得、慶長12年(1607)には、前関白近衛信尹が参詣の折、柳の枝を折って「梅」の字を分け「木母寺」として以来、寺号としたといいます。
その後、明治維新の廃仏毀釈によって廃寺となり、梅若神社となっていましたが、明治21年、光円僧正の特段の努力により、仏寺として再興されました。その時の当代の有力者が、再興に賛同した旨の「旧蹟再興賛成簿」が残されています。
かつては堤通りに面して、鐘渕中学校と隣り合っていましたが、東京都の防災拠点建設事業により、昭和51年、梅若塚・碑林ともども、隅田川寄りに160mほど移転して、現況に至りました。跡地には「榎本武揚像」のみを残し、区立梅若公園として防災拠点の一景観ともなっています。(すみだの史跡文化財めぐりより)

木母寺の沿革

貞元元年(976)
僧の忠円によって梅若丸の墓所が築かれ、翌年にいたり、その側に念仏堂が建立されたという
文治5年(1189)
源頼朝が奥州遠征の途中に参拝したと伝えられている
長禄3年(1459)
太田道灌が参拝し梅若塚を改修したといい、この頃梅若寺が建てられたともいう。
文明17年(1485)
京都五山の僧で詩文のたくみな万里が、ここを訪れたことが彼の詩集「梅若無尽蔵」に述べられている。これは梅若塚を記したものとして、現存する最古の文型である。また翌18年には准三后の位にあった僧の道興も、ここを訪れたことが彼の紀行文「廻国雑記」に出ている。
天正18年(1590)
徳川家康が参拝し、梅柳山という山号を贈られる。
慶長6年(1601)
徳川氏より5石の寺領を給せられる。ついで寛文10年(1670)さらに20石を加増される。
慶長12年(1607)
前関白近衛信尹が参拝する。このとき木母寺と改名される
寛永年間
当寺の境内に隅田川御殿が建てられ、将軍その他の貴人がしばしば来寺する
延宝7年(1679)
上州高崎城主の安藤重治によって絵巻物「梅若権現御縁起」3巻が寄進される(現存)
宝永2年(1705)
当寺の堂社配置のようすが石川流宣の「江戸案内巡見図鑑」に詳しく示される
元禄~享保年間
梅若伝説に取材した一連の文学作品「隅田川物」の最盛期となる。当寺は、この頃、貴人の寺から庶民の寺となり、広く世人に親しまれるようになる
明治元年(1868)
維新と共に幕府の保護を失い廃寺となり、寺の堂社は取り除かれて跡地には梅若神社が創建される
明治21年(1888)
仏寺復帰の願いが僧の光円によって実現され、木母寺の復興が成し遂げられる。翌22年、梅若神社が旧に復して梅若堂となる。神社を再び仏寺とすることは、当寺としては非常に困難な事業であり、当寺ではこれを明治中興と称している。
大正9年(1920)
東京府によって梅若塚は史跡の指定を受ける
昭和20年(1945)
4月13日米軍機の空襲を受けて本堂など焼失する。また戦火を免れた唯一の仏堂である梅若堂も15日の再度の空襲により再度の損傷を受ける。
昭和25年(1950)
もとの位置に仮本堂を建立する。昭和27年には梅若同を改修し、梅若権現忌(梅若祭)が復活し今日に至る。なお梅若忌は明治中興後は新暦4月15日に執行される。
昭和51年(1976)
都市再開発法に基づく防災拠点建設事業の実施により、現境内へ移転する。

木母寺所蔵の文化財

  • 紙本着色梅若権現御縁起(墨田区指定文化財)
  • 都鳥手鑑(墨田区登録文化財)
  • 書軸2幅(墨田区登録文化財)
  • 梅若塚(都指定旧跡)

梅若塚(梅若山王権現)の由来

境内に鎮座する梅若塚は、謡曲などによって、広く知られている旧跡です。当寺に現存する絵巻物「梅若権現御縁起」は、次のような説話を伝えております。
梅若丸は、吉田少将惟房卿の子、5歳にして父を喪い、7歳の時、比叡山に登り修学す。たまたま山僧の争いに遭い、逃れて大津に至り、信夫藤太という人買いに欺かれ、東路を行き、隅田川原に至る。
旅の途中から病を発し、ついにこの地に身まかりぬ。ときに12歳、貞元元年(976)3月15日なり。
いまはの際に和歌を詠ず。
尋ね来て 問はば応へよ都鳥 隅田川原の露と消へぬと
このとき天台の僧、忠円阿闍梨とて貴き聖ありけるが、たまたまこの地へ来り、里人とはかりて一堆の塚を築き、柳一株を植えて標となす。
あくる年の3月15日、里人あつまりて念仏なし、弔い居りしに、母人、わが子の行方を訪ねあぐね、自ら物狂わしき様して、この川原に迷い来り、柳下に人々の群れ居り称名するさまを見て、愛児の末路を知り悲嘆の涙にくれける。その夜は里人と共に称名ありしに、塚の中より吾が子の姿、幻の如く見え、言葉をかわすかとみれば、春の夜の明けやすく、浅茅の原の露と共に消え失せぬ。夜あけて後、阿闍梨にありし事ども告げて、この地に草堂を営み、常行念仏の道場となし、永く其霊を弔いける

梅若塚の沿革

「たづねきて問はばこたえよ都鳥すみだ河原の露ときえぬと」の辞世で名高い梅若塚は中世からは能「隅田川」の文学的旧跡、また江戸時代には梅若山王権現として尊信されました。
明治の世となり木母寺が廃寺の後は梅若神社と称されましたが同寺再興の翌年(明治25年)佛式に復帰しました。
現在地に遷座したのは昭和51年で、旧地は門前の団地住宅第9号棟の東面梅若公園内に存置、石標が立っています

身代わり地蔵尊の由緒

この地蔵尊は、木母寺が旧地にあった頃、門前に安置されて多くの人々から深い尊信を寄せられ、民衆守護の願いを聞き届けられた、ゆかりの深いお地蔵様です。
そもそも地蔵菩薩は、常に六道(人間が転々とする六つの境涯)を巡り、人々の悩み苦しみを察し、身代わりとなって下さるという「代受苦の菩薩」としての信仰が古くからあります。
つらいこと、苦しいこと、悲しいことが起こった時には、このお地蔵様に訴え、「身代わり」をお願いして、あなた自身は元気を取り戻してください。
地蔵菩薩の御真言(お祈りするときの言葉・合掌して三たび唱える)
オン・訶訶訶尾・娑魔曳・娑婆訶(オン・カカカビ・サマエイ・ソワカ) (身代わり地蔵尊の案内掲示より)

境内の諸碑

「梅若塚」で知られる境内には、謡曲「隅田川」の碑など、30墓の石碑があり、著名なものとしては次の諸碑があります。
華笠文京翁碑
幕末に出た劇作家花笠文京(魯助)の数奇に富んだ生涯を述べた碑で、弟子である仮名垣魯文が建てました。
天下の糸平の碑
高さ5m、幅3mを越す都内一の巨碑です。明治の初め、貿易で成功を収めた田中平八(通称天下の糸平)の石碑です。親交のあった政治家、伊藤博文の書です。
三遊塚
三遊亭円朝が先師初代円生追福のため、明治22年に建てた碑です。題字は山岡鉄舟。銘文は高橋泥舟の書です。
題墨田堤桜花(墨田堤桜花に題す)の詩碑
亀田鵬斎の作ならびに書で「長堤十里、白にして痕なし、訝しむ澄江の月と共に渾るに似たると。飛蝶還り迷う三月の雪。香風吹き度る水晶の村」と読みます。銘文は九歳の少年清水孝の書です。文政12年建立。」
(平成8年3月 墨田区教育委員会)


木母寺の周辺図