浅草神社|三社大権現、三社祭、浅草七福神の恵比寿神
浅草神社の概要
浅草神社は、台東区浅草にある神社です。浅草神社は、浅草寺本尊の観音像を拾い上げた桧前浜成命、桧前竹成命、奉安した土師真中知命、及び東照宮を祭神として、約700年前に創建したといいます。浅草七福神の恵比寿神です。
社号 | 浅草神社 |
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祭神 | 土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命、東照宮 |
相殿 | - |
境内社 | 被官稲荷社 |
住所 | 台東区浅草2-3-1 |
備考 | 旧郷社、浅草七福神の恵比寿 |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
浅草神社の由緒
浅草神社の創建年代は不詳ですが、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた桧前浜成、桧前竹成及び浅草寺の観音像を奉安した土師真中知を祭神として、約700年前に創建したといいます。
東京都神社名鑑による浅草神社の由緒
浅草神社の創建は、『浅草寺縁起』の観音像示現の物語や、『承応縁起』にある土師真中知の嫡子に観世音の「汝らの親は我を海中より上げて薫護せり。故に慈悲を万民に施し今日に及びしがその感得供養の力は賞すべきなり。即ち観音堂のかたわらに神として親達を鎮守すべし。名づけて三社権現と称しいつき祀らば、その子孫、土地と共に繁栄せしむべし」との夢告があって創建されたことになっている。これによれば千三百年前になるが、権現思想の関係から考えれば、約七〇〇年前のころではなかろうかと推定されている。現在の社殿は、徳川将軍家光が慶安二年(一六四九)十二月に一千百二十九両一分の費用で建立寄進した、徳川初期の権現道の代表的な建物である。昭和二十一年国宝建造物、同二十六年重要文化財に指定されている。また同三十八年に昭和の大修営を行なった。戦前は家光公が寛永十四年(一六三七)に寄進した神輿三基があったが、戦災のため焼失した。現在のものは昭和二十五年に一・二の宮、同二十七年に三の宮を氏子四十四ヵ町で新造し奉納した。(東京都神社名鑑より)
台東区教育委員会掲示による浅草神社の由緒
明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命、桧前浜成命、桧前竹成命、東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」と呼ばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。
現在の社殿は慶安2年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」(弊殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年5月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんださら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。(台東区教育委員会掲示より)
台東区教育委員会掲示によ境内社被官稲荷社の由緒
安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同二年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便のいい新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組頭としても、多彩な活躍をした。
社殿は一間社流造、杉皮葺。創建以来のもの。間口約1.5m、奥行約1.4mと小さいが、覆屋を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。(台東区教育委員会掲示より)
浅草神社所蔵の文化財
- 浅草神社社殿(日本国重要文化財)
- びんださら(東京都指定無形民俗文化財)
浅草神社の周辺図