浅草橋須賀神社|台東区浅草橋の神社

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浅草橋須賀神社|郷人等が牛頭天王の祠をたてて創始

浅草橋須賀神社の概要

浅草橋須賀神社は、台東区浅草橋にある浅草橋須賀神社です。浅草橋須賀神社の創建年代等は不詳ながら、推古天皇九辛酉年(601)武蔵国豊島郡に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王の祠をたてて創始したと伝えられ、江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していました。明治元年須賀神社と改称、明治5年村社に列格していました。

浅草橋須賀神社
浅草橋須賀神社の概要
社号 須賀神社
祭神 素盞嗚尊
相殿 -
境内社 大洗磯前神社、御門神社、厳島神社、秋葉神社、稲荷神社
住所 台東区浅草橋2-29-16
備考 旧村社



浅草橋須賀神社の由緒

浅草橋須賀神社の創建年代等は不詳ながら、推古天皇九辛酉年(601)武蔵国豊島郡に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王の祠をたてて創始したと伝えられ、江戸期には祇園祠牛頭天王社と称していました。明治元年須賀神社と改称、明治5年村社に列格していました。

東京都神社名鑑による浅草橋須賀神社の由緒

巻子本仕立のものと、天正塚碑文というものとあるが、内容はだいたい同じである。すなわち推古天皇九辛酉年(六〇一)このあたり(武蔵国豊島郡)に疫病が流行した折、郷人等が牛頭天王に、病難平癒を願ったところ、ことごとく快気を得たので、この所に祠をたてたのが創始とされる。六月八日と伝えられる。『求涼雑記』、『江戸名所図会』等にも、村上天皇の天暦年中(九四七-五七)神祠があったことを記している。江戸時代将軍家光の時、松平伊豆守信網公銭を与え賜わり、時の奉行神尾備前守元勝、朝倉石見守在重に命じて造替せしめ、寛永十六年(一六三九)りっぱに竣工せりと記している。当社所在地である蔵前は、江戸時代「札差」が軒を並べていたところで、当社の氏子にもその札差が多かった。札差とは、旗本や御家人の代理として禄米を受けることを業とした、いわば米商人で吉宗将軍のころには一〇九名もが公認されていたといわれている。彼らは武士への金貸しなども行なって富を得、次第に江戸の経済を動かすほどの勢力を持つようになった。それが大の祭り好きで、六月の祭礼もその財力を背景にして大いに賑わった。その有様は『江戸名所図会』には四頁にわたって描かれている。また文政の頃(一八一八-三〇)両国吉川町大黒屋平吉の板による新版御祭双六にも出ている。明治以降、天台宗東叡山寛永寺末真鏡山宝現院大円寺から分離して、浅草橋須賀神社と改称した。大正十二年関東大震災・昭和二十年の戦災被害をうけたが、昭和三十六年社殿・社務所等建物はことごとく完成した。(東京都神社名鑑より)

「淺草區史」による浅草橋須賀神社の由緒

村社須賀神社
須賀町にあり。もと祇園祠牛頭天王社と稱す。淺草志に
祇園社 天王町 別當眞鏡山法理院大圓寺(天台上野末)祭神素戔嗚尊。牛頭天王といふ
求凉雑記に『往古より此處に在り、明和元年未年まで七百年に及ぶ』とありて江戸圖説・江戸名所圖會等皆之に從ひ、天暦年中(村上天皇御宇)なりとせり。社傳には推古の朝といへり。江戸時代には大倉前の惣鎮守なりしものにして、其の祭禮は江戸名所圖會に
毎歳六月八日の晩之を修行す。氏子の家にて團子を製し、悉く篠の枝につけて是を寶前に供す。時に諸人爭て之をとり得て家内に収め置、疫災を除くの守護とす。
とありて、俗に團子天王と呼び、御團子様と唱ふ。舊時の祭禮には群衆雑踏せしが、今は舊態を存せう。明治元年十月社名を現稱に改め、同五年十一月十二日村社に列せらる。境内二百二十二坪餘あり。(「淺草區史」より)


浅草橋須賀神社の周辺図


参考資料

  • 「淺草區史」
  • 東京都神社名鑑