今戸神社|源頼義、義家父子が奥州征伐の折に創建、浅草七福神の福禄寿
今戸神社の概要
今戸神社は、台東区今戸にある神社です。今戸神社は、康平6年(1063)源頼義、義家父子が奥州征伐の折、京都の岩清水八幡宮を鎌倉鶴ヶ岡八幡宮と共に当地に八幡宮を勧請し創建、後三年の役の後祈願成就を感謝して再建、江戸時代に至っても今戸八幡宮と称して武家の尊崇が篤かったといいます。浅草七福神のひとつ福禄寿が祀られている他、下町八社巡りの一社です。
社号 | 今戸神社 |
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祭神 | 応神天皇、伊佐那岐命、伊佐那美命、福禄寿 |
相殿 | - |
境内社 | - |
住所 | 台東区今戸1-5-22 |
備考 | 村社、浅草七福神の福禄寿 |
※御朱印画像はいけみずさんよりの寄贈
今戸神社の由緒
今戸神社は、康平6年(1063)源頼義、義家父子が奥州征伐の折、京都の岩清水八幡宮を鎌倉鶴ヶ岡八幡宮と共に当地に八幡宮を勧請し創建、後三年の役の後祈願成就を感謝して再建、江戸時代に至っても武家の尊崇が篤かったといいます。
御府内寺社備考による今戸神社の由緒
八幡宮
御府内備考続編巻之七神社部七
浅草今戸町
八幡宮除地、千三百九十二坪外年貢地百九十六坪右社地被下候年月聢と相分不申候。今戸町中之惣鎮守二御座候。当社勧請之年代も聢と相知不申候得共、正治元己未年八月吉祥日と斗縁起二有之。由緒之儀相分不申候得共、先規当社之由緒被為 聞召、寛永十三丙子年中御再興有之候由、其節之御奉行舟越三郎四郎殿後任伊予守・八木勘十郎殿後任但馬守御勤有之候由申伝ニ御座候。
本社。祭神正八幡宮、座像丈六寸許。愛染明王、座像丈五寸。中哀天王、座像丈七寸。
貞享六年ニ記し候略縁起ニ、康平六年頼義・義家奥州安太夫安部定任等を討罰の砌、祈願によって鎌倉鶴ヶ岡と浅草今津村に両社を勧請あり。その後永保元年、武衡家衝を追討の祈願成就に依て両社修造を加へらる。文治五年頼朝卿奥州出羽両国の守護、西木戸太郎・伊達次郎を退治の節祈誓あり。建久元年、願成就に依て再建ある。文正元年、兵火の為に悉焼失す。然るに三仏堂のミ回禄の災をのがる。寛永十三年 三代将軍様、当社の由緒を被聞召、御再建有之候由、本縁起二有之云々。
八幡宮之額字、竹川平流書。
鳥居二基。八幡之額字識、大僧正尚詮筆一ノ鳥居ニ掛。同、関其寧筆二ノ鳥居ニ掛。
本地堂。
本尊阿弥陀如来、坐像行基作。倶利迦羅不動、木像。
本尊不動、立像弘法作。観音、立像慈覚作。
護摩堂。大破二付当時取払申候。
末社。太子堂、稲荷社、金毘羅社。
石灯籠二基。一ハ寛文元年九月、桑嶋孫兵衛綱晴寄進、一ハ寛永十一年正月、山城国八幡住山本長右衛門寄進。
長崎正種像、丈五寸許千葉介常胤十九代原隠岐守勝胤二男。
田中主膳元陣像、丈五寸許正種嫡子。
松前氏之書面一通、同願文一通。
別当八幡山無量寺松林院、浅草寺末。開山開基不詳。
以上乙酉書上(御府内寺社備考より)
東京都神社名鑑による今戸神社の由緒
創建は康平六年(一〇六三)、時の奥州鎮守府将軍源頼義、義家父子が、安倍貞任、宗任討伐のみぎり、篤く祈願をかけて、京都の石清水八幡宮を鎌倉の鶴ケ岡と当浅草今之津(現在の今戸)とに勧請したのによる。その後、永保元年(一〇八一)、義家は社殿を整備し、文治五年(一一八九)源頼義が奥州守護役の木戸太郎・伊達治郎の叛乱平定の折の必勝祈原による成功を深く感謝して建久元年(一一九〇)、社殿の修復整備をはかり、また、文治五年(一一八九)藤原泰衡討伐にあたり当社に使いをたて、供物を献じあわせて神田を寄進し、建久年中(一一九〇-九九)には、再度社殿の修復造営をなした。下って室町時代には、戦乱兵火のため一時の空白をみたが、寛永十三年(一六三六)将軍家光より官材を賜わり、舟越伊豫守、八木但馬守に命じて社殿と境内の造営に尽力。以来、江戸末期から明治におよぶまで水と花の名所にふさわしい神社として知られたが、その後、関東大震災、戦災の禍を経て、社殿とその周辺は昔日の姿を失ったが、その社運いよいよ増して今日に至っている。(東京都神社名鑑より)
今戸神社にある台東区登載文化財
- 石造狛犬
石造狛犬
本狛犬は今戸焼の職人により、宝暦2年(1752)に今戸町の鎮守であった今戸八幡神社(現在の今戸神社)に寄進され、文政5年(1822)8月に再興されたものです。浅草新堀の石工である小松屋竹右衛門(岡田竹右衛門)が製作しました。「本多五郎兵衛忠廣」なる人物が願主のようですが、詳細は不明です。
今戸焼とは江戸時代・明治時代を中心に今戸やその周辺でおこなわれた地場産業です。瓦・日常生活道具・土人形・工芸品などの焼物を生産販売して、江戸東京住民の需要に応えました。
狛犬の台座に詳細な銘文があり、今戸焼職人ならびに世話人の計42名が寄進したことがわかります。この職人たちは火鉢屋・土器屋・焙烙屋(ほうろくや)に所属しており、食器や調理道具など、日常生活道具を生産していた人々です。
明治期以後には、今戸焼の需要の減少にともない職人も減少していきます。残る職人たちも、今戸周辺の都市化や、震災・戦災などにより、隅田川の東岸、中川・荒川の流域などの周辺地域に移転していきました。現在、区内には一軒を残すのみとなっています。
本狛犬は、今戸現地に残り、最も詳細に江戸時代の今戸焼職人の名前や所属が判明する貴重な資料です。
今戸神社の周辺図