藏前神社|元禄6年に石清水八幡宮を勧請、旧郷社
藏前神社の概要
蔵前神社は、台東区蔵前にある神社です。蔵前神社は、徳川綱雄氏が男山の石清水八幡宮を勧請して、元禄6年(1694)石清水八幡宮と称して創建しました。明治維新後の明治5年村社に、翌年郷社に列格しています。昭和22年に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合祀、蔵前神社と改称したといいます。
社号 | 藏前神社 |
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祭神 | 誉田別天皇、息長足姫命、姫大神、倉稲魂命、菅原道真公、塩土翁命 |
相殿 | - |
境内社 | 福徳稲荷神社、塩竃神社、北野天満宮 |
住所 | 台東区蔵前3-14-11 |
備考 | 旧郷社 |
藏前神社の由緒
蔵前神社は、徳川綱雄氏が男山の石清水八幡宮を勧請して、元禄6年(1694)石清水八幡宮と称して創建しました。明治維新後の明治5年村社に、翌年郷社に列格しています。昭和22年に隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合祀、蔵前神社と改称したといいます。
東京都神社名鑑による藏前神社の由緒
元禄六年(一六九三)八月山城国(京都)男山の石清水八幡宮を徳川五代将軍綱吉公が当地に勧請奉斎し、江戸城鬼門除の守護神ならびに将軍家祈願所の一社として尊崇せられ御朱印社領二百石を寄進せられた。江戸時代には別当職の僧侶も在任し、文殊院または大護院の八幡宮とも称されたが、一般には、蔵前八幡あるいは「蔵前の八幡さま」と唱えられ、庶民の崇敬者はなはだ多く、関東地方における名社の一つに数えられた。当社の創建当時は境内地も二千二百七十余坪を有し、勧進大相撲の開催も二十二回におよび、この間大関谷風・大関雷電・関脇小野川などの名力士も当社境内を舞台に活躍し、賑わいを呈した。明治以降別当職は廃止され、明治十一年十一月石清水神社と改称、同十九年四月石清水八幡宮と改称す。大正十二年九月の関東大震災により社殿焼失、その後、再建された社殿も昭和二十年三月の戦災により焼失した。(東京都神社名鑑より)
「淺草區史」による藏前神社の由緒
郷社石清水神社
八幡町にあり、江戸砂子に、
八幡宮 御蔵前 社領二百石 別當雄徳山神光寺大護院眞言
これを文殊院といふは、以前文殊院といひて高野山行人派の觸頭交る交る住院す。行人派騒動ありて後、元禄五年(社傳は六年癸酉八月五日とあり)の頃山城男山清水八幡宮をうつされたり。
とあり。社領は元禄七年七月十日荏原郡今泉村の内にて百石を給せられ、寶永五年三月廿九日更に同郡御園村の内にて百石を加へ、二百石となれるなり、淺草志に、
當社は慶長頃御氏神たるに依って御信心の處、元禄五年武州に石清水を移さる。高野山行人派觸頭文殊院淺草に社地を賜り、當社御建立有。今に至て毎月十六日御禮献上す。云々。
と見え、由緒深き社なり。運慶作と傳ふる護摩堂本尊あり。元和三年上下紀行の『淺草の高野寺』は此の文殊院なるべし。享保十七年三月類焼後堀田原に移し、延享元年四月五日今の地に轉環す。天保十三年町道場禁止の時茅場町なる成田不動尊の旅宿を轉じて此の境内に移されしかば、當時成田八幡と呼びしとぞ。祭日八月十五日にして氏子數町あり。明治五年十一月村社に列し、同六年七月五日郷社となる。社傳によれば、男山石清水八幡宮を勸請し、社名を雄徳山石清水八幡宮と稱し、明治元年八幡神社と改め、同十年十一月十五日現稱に改む。境内二百餘坪にして末社二三あり。(「淺草區史」より)
藏前神社の周辺図
参考資料
- 「淺草區史」
- 東京都神社名鑑