五条天神社|上野山内天神山(摺鉢山)に創建、旧村社
五条天神社の概要
五条天神社は、台東区上野公園にある神社です。五条天神社は、景行天皇の御代(110)日本武尊が上野山内天神山(摺鉢山)に創建したといいます。寛永18年に菅原道真公を合祀、寛永寺創建により、神職瀬川邸に殿座、昭和3年旧地へ環座したといいます。東都七福神の一つです。
社号 | 五条天神社 |
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祭神 | 大己貴命、少彦名命(医・薬祖神) |
相殿 | 菅原道真命 |
境内社 | 花園神社 |
住所 | 台東区上野公園4-17 |
祭日 | 例大祭5月25日、医薬祭毎月10日、月次祭毎月25日、宝舟の神事1月1日・2日、うそ替えの神事1月25日、うけらの神事2月節分の日 |
備考 | 旧村社 |
五条天神社の由緒
五条天神社は、景行天皇の御代(110)日本武尊が上野山内天神山(摺鉢山)に創建したといいます。寛永18年に菅原道真公を合祀、寛永寺創建により、神職瀬川邸に殿座、昭和3年旧地へ環座したといいます。
境内掲示による五条天神社の由緒
第12代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ昭和65年には御鎮座二千八百八十年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い現地には昭和3年9月に御遷座になりました。(境内掲示より)
東京都神社名鑑による五条天神社の由緒
景行天皇の御代(一一〇)日本武尊が東夷征伐のため、上野忍ケ岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に難儀を救われたことを感謝し、ここに両神を祀られた。相殿の菅公は、社名が五條天神といわれたことから、寛永十八年(一六四一)に合祀されたともいい、また神職瀬川家が代々連歌師であって、歌道の祖として庭内に祀られていた社を合祀したともいう。社地は天神山にあったが、寛永寺が創られるにあたり、神職瀬川邸に遷り、震災のあと、現地に昭和三年九月遷座された。(東京都神社名鑑より)
御府内寺社備考による五条天神社の由緒
下谷不唱小名 五条天神社、拝領地508坪間口27間2尺奥行南ノ方23間北ノ方19間裏間口21間3尺。
往古上野山内天神山(俗ニ摺鉢山)ニ有之候処、先祖瀬川昌佐義日光山御縁起ノ儀、寛永15年青蓮院宮尊純親王江戸御参府之砌、御同伴仕参府致申候。
大猷院様御目見被、仰付時服銀子拝領仕、帰京可仕之所、天海僧正江戸ニ逗留致申候様、上様ヘ被、仰上候。其後、
大猷院様御夢想開之御連歌御会ニ被召、加御連歌師被 仰付、只今之所ニ而寛永15年11月朔日、地面拝領仕、只今迄正月11日御吉例之御連歌御用相勤来申候。年々時服銀子御扶持方被下置候。天神別当職之儀は寛永18年、
大猷院様上野御成之節、昌佐住居有之候後、天神山之天神社昌佐倅時春ニ御預被成候様、天海僧正被仰上時春別当職仕来候。御連歌師ニ而別当兼帯致申候。
其後明暦3年迄上野山内天神山下ニ住居申候所、明暦3年、
厳有院様御代、天神山之天神社上野広小路ヘ引移申候様被仰出、引料として金500両被下置候。其後元禄10年
常憲院様御代、松平薩摩守殿中堂御建立之砌、天神社只今之所ニ引移申候様被、仰出候。松平薩摩守殿御手伝之次手天神社建申候地所ヘ上野天神山下土を引取地行候様
公儀被 仰付外ニ金100両被下置候。追而社地見立願可出旨、松平伊豆守殿被仰渡候。其後相応之地所も無御座、只今迄願出シ不申候。是ニ仍而社地ニ而ハ無御座、連歌師ニ而拝領地江拝領地江仮ニ社頭建置申候。(御府内寺社備考より)
五条天神社の周辺図